甲陽軍鑑 / 品第四十七
殊更增城源八義信公おちの人の甥なる故、是への輕薄にするの勘がへもなく、むざと增城源八手抦と申すにより、そこにて長沼兄弟是非とも討果たすべきとは覺悟いたす、右すけて四人の內、石田長藏·矢崎新九郞·飯室喜藏三人の申す樣に、尤も其の方兄弟道理千萬なり、各々諏訪より只何となく歸り候はゞ、髻をはらふべきこと誓紙をいたして、今かやうに源八申さるれば、此三人の者どもをも定めて兄弟の人疑ひ給ふべし、さりながら源八郞と其方兩人はたし給はゞ、此三人をも公儀より御せんさくつよからん、又貴殿兩人も源八をきりころしてあるならば、
新字:殊更增城源八義信公おちの人の甥なる故、是への軽薄にするの勘がへもなく、むざと增城源八手抦と申すにより、そこにて長沼兄弟是非とも討果たすべきとは覚悟いたす、右すけて四人の内、石田長蔵·矢崎新九郎·飯室喜蔵三人の申す様に、尤も其の方兄弟道理千万なり、各々諏訪より只何となく帰り候はゞ、髻をはらふべきこと誓紙をいたして、今かやうに源八申さるれば、此三人の者どもをも定めて兄弟の人疑ひ給ふべし、さりながら源八郎と其方両人はたし給はゞ、此三人をも公儀より御せんさくつよからん、又貴殿両人も源八をきりころしてあるならば、
書き下し
殊更增城源八義信公おちの人の甥なる故、是への軽薄にするの勘がへもなく、むざと增城源八手抦と申すにより、そこにて長沼兄弟是非とも討果たすべきとは覚悟いたす、右すけて四人の内、石田長蔵·矢崎新九郎·飯室喜蔵三人の申す様に、尤も其の方兄弟道理千万なり、各々諏訪より只何となく帰り候はゞ、髻をはらふべきこと誓紙をいたして、今かやうに源八申さるれば、此三人の者どもをも定めて兄弟の人疑ひ給ふべし、さりながら源八郎と其方両人はたし給はゞ、此三人をも公儀より御せんさくつよからん、又貴殿両人も源八をきりころしてあるならば、
現代語訳
ことさら増城源八は義信公のおちの人の甥であるゆえに、これへの軽薄にする勘考えもなく、むざと増城源八の手柄と申すにより、そこにて長沼兄弟は是非とも討ち果たすべきとは覚悟いたす。右の助けて四人の内、石田長蔵・矢崎新九郎・飯室喜蔵の三人が申す様に、もっとも、その方の兄弟の道理は千万である。方々が諏訪よりただ何となく帰り候わば、髻を払うべきことを誓紙をいたして、今かように源八が申さるれば、この三人の者どもをも、定めて兄弟の人は疑い給うべし。さりながら、源八郎とその方の両人が果たし給わば、この三人をも公儀より御詮索が強からん。
解説
この章句が説くこと
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