甲陽軍鑑 / 品第六
氏實公政道よくましまさば家康公の表裡にても有べし氏實公あしき大將にてもあれ家康公今川殿に傳る家老ならはこそ人のいふも尤なれ、家康公はもとより一城の主たり、時のけんにまかせて屬したる大名と申物也、時のけんによつて屬したる人は萬事を抛て時を見あはせ我立身を專にする物なれは、家康公今川殿の家老にてはなし努々表裡に有べからず、
新字:氏実公政道よくましまさば家康公の表裡にても有べし氏実公あしき大将にてもあれ家康公今川殿に伝る家老ならはこそ人のいふも尤なれ、家康公はもとより一城の主たり、時のけんにまかせて属したる大名と申物也、時のけんによつて属したる人は万事を抛て時を見あはせ我立身を専にする物なれは、家康公今川殿の家老にてはなし努々表裡に有べからず、
書き下し
氏実公政道よくましまさば家康公の表裡にても有べし氏実公あしき大将にてもあれ家康公今川殿に伝る家老ならはこそ人のいふも尤なれ、家康公はもとより一城の主たり、時のけんにまかせて属したる大名と申物也、時のけんによつて属したる人は万事を抛て時を見あはせ我立身を専にする物なれは、家康公今川殿の家老にてはなし努々表裡に有べからず、
現代語訳
氏真公の政道がよくあられたなら、家康公の表裏ということもあろう。氏真公が悪い大将であっても、家康公が今川殿に伝わる家老であるならばこそ、人の言うのももっともである。家康公はもとより一城の主である。時の権に任せて属した大名と申す物である。時の権によって属した人は、万事を抛って時を見合わせ、我が立身を専らにする物であるから、家康公は今川殿の家老ではない。ゆめゆめ表裏であるはずがない。
解説
譜代の家老と、時の勢いで属した大名を区別している。前者には忠を尽くす筋があるが、後者にはない。同じ離反でも、立場が違えば評価が違うという線引きで、この書はのちに武田家の内側にも同じ物差しを当てる。属した経緯が、離れる時の筋を決める。属した経緯が、離れる時の筋を決める。同じ離反でも、譜代の家老か、時の勢いで属した大名かで評価が変わるという線引きになっている。
この章句が説くこと
譜代家臣立場忠義離反線引き
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