甲陽軍鑑 / 品第十六
雖然此城不入城なりとて、其日本田百介を召し具し、家康公城をあけて岡崎へ歸陣し給ふ、是家康公廿一歳の時なり是れとても三年前大高に於て家康公城をあけず、味方の一左右を聞き届け、大高を立ち退きたる大强の其下の本田百介にて、一の宮の城を持ちこらへあけずして、今川家の人々に深くおもはるゝ事若手なれども、家康男道のきつかけをはづし給はぬ故ぞかし、
新字:雖然此城不入城なりとて、其日本田百介を召し具し、家康公城をあけて岡崎へ帰陣し給ふ、是家康公廿一歳の時なり是れとても三年前大高に於て家康公城をあけず、味方の一左右を聞き届け、大高を立ち退きたる大强の其下の本田百介にて、一の宮の城を持ちこらへあけずして、今川家の人々に深くおもはるゝ事若手なれども、家康男道のきつかけをはづし給はぬ故ぞかし、
書き下し
雖然此城不入城なりとて、其日本田百介を召し具し、家康公城をあけて岡崎へ帰陣し給ふ、是家康公廿一歳の時なり是れとても三年前大高に於て家康公城をあけず、味方の一左右を聞き届け、大高を立ち退きたる大强の其下の本田百介にて、一の宮の城を持ちこらへあけずして、今川家の人々に深くおもはるゝ事若手なれども、家康男道のきつかけをはづし給はぬ故ぞかし、
現代語訳
けれども、この城は要らない城であるといって、その日のうちに本多百介を召し連れ、家康公は城を明けて岡崎へ帰陣された。これは家康公が二十一歳の時である。これとても、三年前に大高において家康公が城を明けず、味方の知らせを聞き届けてから大高を立ち退いた、その大強の下の本多百介であるから、一の宮の城を持ちこらえて明けず、今川家の人々に深く思われたことは、若手であっても家康が男道のきっかけを外されなかったゆえである。
解説
救い出した城を、その日のうちに要らないと言って捨てる。守ったのは城ではなく人だった、ということになる。そして百介が持ちこたえられたのは、三年前に主君自身が大高で同じことをしていたからだと結ばれ、上の振る舞いが下に写ることが示される。守ったのは城ではなく人だった、ということになる。上の振る舞いが下に写るという筋が、三年前の大高の話と結び付けて示されている。
この章句が説くこと
家康城人男道本多退
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