甲陽軍鑑 / 品第十四
さて又いづれの家にても勝利を失ひ給ふ大將をば、諸人譽めながら輕く存ずるぞ、まづ信州平賀成賴いかばかり覺への名大將と申したるげに候へども、武田廿六代目信虎公に討ちまけて討ち死すれば、其名は申し傳へず、越後長尾爲景、越中のしかと大將なき我もちの侍どもにあふて討ち死なれば、子息輝虎の十分一も四方にて名をよばず、信州更科の村上殿淺からぬ覺への大將と申せども、武田廿七代目の信玄入道晴信公に討ち負けて、村上我持分をすて越後へ立退、我よりわかき輝虎を賴み給へば、これもつて諸人村上殿をほめず候、
新字:さて又いづれの家にても勝利を失ひ給ふ大将をば、諸人誉めながら軽く存ずるぞ、まづ信州平賀成頼いかばかり覚への名大将と申したるげに候へども、武田廿六代目信虎公に討ちまけて討ち死すれば、其名は申し伝へず、越後長尾為景、越中のしかと大将なき我もちの侍どもにあふて討ち死なれば、子息輝虎の十分一も四方にて名をよばず、信州更科の村上殿浅からぬ覚への大将と申せども、武田廿七代目の信玄入道晴信公に討ち負けて、村上我持分をすて越後へ立退、我よりわかき輝虎を頼み給へば、これもつて諸人村上殿をほめず候、
書き下し
さて又いづれの家にても勝利を失ひ給ふ大将をば、諸人誉めながら軽く存ずるぞ、まづ信州平賀成頼いかばかり覚への名大将と申したるげに候へども、武田廿六代目信虎公に討ちまけて討ち死すれば、其名は申し伝へず、越後長尾為景、越中のしかと大将なき我もちの侍どもにあふて討ち死なれば、子息輝虎の十分一も四方にて名をよばず、信州更科の村上殿浅からぬ覚への大将と申せども、武田廿七代目の信玄入道晴信公に討ち負けて、村上我持分をすて越後へ立退、我よりわかき輝虎を頼み給へば、これもつて諸人村上殿をほめず候、
現代語訳
さてまた、いずれの家においても勝利を失われた大将を、諸人は褒めながらも軽く存ずるものである。まず信州の平賀成頼は、どれほど覚えの名大将と申したそうであるけれども、武田二十六代目の信虎公に討ち負けて討ち死にすれば、その名は申し伝えられない。越後の長尾為景は、越中のこれといった大将もいない自分たちの持ちの侍どもに会って討ち死にされたので、子息の輝虎の十分の一も四方に名を呼ばれない。信州更級の村上殿は浅からぬ覚えの大将と申すけれども、武田二十七代目の信玄入道晴信公に討ち負けて、村上は自分の持ち分を捨てて越後へ立ち退き、自分より若い輝虎を頼まれたので、これをもって諸人は村上殿を褒めないのである。
解説

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『甲陽軍鑑』品第十三又時々境目へ氏康が出申は、御当家を殊の外怖奉て身がまへに罷出るを、各大事と存ぜらる近国にても、前に申甲斐の武田信虎などは、信濃の平賀成頼と一日に八度の合戦仕り、終に信虎かち候、武田が内にて横田備中·多田三八両人八度ながら鑓を入始たると承はる、又信州かつら尾の村上頼平も、越後長尾為景と日中に十一度の合戦をして、終に村上が勝利を得候、此時村上内にて丸田市右軽井沢衛門·石黒弥五之丞·かない原弾止是三人十一度ながら仕りすぐるゝ、箇様の合戦致す人は日本国中にも五かしらとは御座有るまじく候、小身なれども武田·村上などならば、自然何かと存することも有るべし、氏康のせがれに武略計策と有ること、甲·信両国に於て侍とも批判もいかゝに候、
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『甲陽軍鑑』品第十四但し長尾輝虎、越中加賀の衆に負け給へど、何とて名高く云ふぞとおほしめすべし、それは輝虎のち又工夫ありて加賀と越中の大将なき我々もちの侍を、北条氏康·武田信玄などのやうに真にあてごふてをくれをしる一揆には、みだりにあてがはんとて、輝虎家中をわれ意地ましにかゝらせ給ふ故、翌年の合戦はおほきに輝虎かち給ひ、加賀の尾山と云ふ所迄追討にし給ふ、是は大方ならぬ弓矢の上手にて、日本国中に末代迄も手本にならん、然れども下劣は武勇をもゑす歌に作りてうたふ其歌は、扨ても越後の輝虎様は、関東面はおてらしあるげな、加賀の鑓にはおくもり有り候〓〓とうたふ、
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『甲陽軍鑑』品第十四ここを又長閑聞給へ、あしき人のみの侍も名大将のしやうにて大合戦に勝給ふ時は、件の盗人侍共捨頸の一ッ二ッは拾て、またよき大剛の衆に人うちはぐるゝ事も有べし、是たゝ国持大将の肝要に分別なさるゝ所也、信玄公ケ様の批判中々日本の事は不及申ニ、大国にもさのみ稀ならんと存ずる程也、强過たる大将は我働きばかり搆へ、何のせんさくもなき物也、
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『甲陽軍鑑』品第三十九毛利元就中国を大形治め、四国·九国まで威をふるひ、元就におぢてしたはのように仕るといへども、信長を聞き及び四郎と云ふ子を信長へ奉公にやるべきと支度仕たると聞き、扨又長尾謙信輝虎は武勇をもつて日本へ名を発し、上杉管領に経あがり候処に、某信玄に負、すでに我等家の侍大将高坂弾正に申付、信玄馬の出てざるに、弾正ばかりをもつて越後の内へ度々はたらき候へば、越後より甲州の内へはたらくべき事は夢にも不存、此比は信州の内さへ然々と出たる事なし、其上越中において大将なき者共に相逢てをくれを取、敵におしつけをみせ、尤翌年に仕りかへし加賀の尾山までおし付たるとあれ共、先謙信も負たる事数度あり、
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『甲陽軍鑑』品第四十一曽根内匠がいはく、信玄公の御弓箭、信州村上殿五郡持ち給ひても、信濃国甲州より広ければ、武田勢より村上勢大陣なり、其上村上頼平公武勇のほまれ近国にならぶかたなし、殊に越後為景にかち、越後の内をもせめとる大将と信玄公十八歳より数度の合戦ある間に、同く信州大身衆諏訪殿·小笠原殿·木曽殿各同事にて信玄公と戦ひ、就中上杉衆是は猶以て大敵なり、小田原北条殿ひろき国を持ち給へば、是れ以て大敵なり、日本に弓箭の儀、若手の家康と信長申しあはせられ無事にいたし信玄公とあひたこかふ時は是又大敵なり、又輝虎は日本に当代の强将なれ共此大将衆にから給ふ、是によつて信玄公御武勇当代の無双也、
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『甲陽軍鑑』品第十四扨大将强過給へば常にきほふて終にけがありけがあれば、まけてよき侍は大形はつる、能者はつれば猿のごとくなる、侍ども残り居て作法あしく成、作法あしければ武辺は猶もよはし、よはければつよみ過たる大将もよはき名を取給ふ、扨こそ前に强過たる大将、末によはき大将にひとつなりと書しるす、如此の大将を、たそと尋ぬるに、武田廿八代目の四郎勝頼公にて御座候、