甲陽軍鑑 / 品第四十七
右金丸平三郞をきりたる落合彥介何方へ可參と僉議まち〳〵なり、然れ共駿河今川殿小田原北條殿いづれも其比は御無事にてましませば、少しのとがには參る者これあれども、かやうの科の者は中々今川殿·北條殿へは不參、尾州信長も庚申の年の五月今川殿と合戰に勝、義元を討とり、其いきはひにて尾州を隨へ、同年のくれに美濃の國へとりかけ、七年戰かふて七年目寅の年と申すに信長公三十三のとし美濃·尾張兩國の主と成給ふ、彼彥介が仕合せも右申の歳、殊更三月なれば未た信長も尾州さへみなもたぬ時にてあれば、信長へと疑ひやうもなし、猶以て家康は其年十九歳の六月までは元康と申、駿河今川殿御旗下なり、騎河·遠江·三河三ケ國今川殿の御國なる故、家康も岡崎の城一ツやう〳〵所持に付、
新字:右金丸平三郎をきりたる落合彥介何方へ可参と僉議まち〳〵なり、然れ共駿河今川殿小田原北条殿いづれも其比は御無事にてましませば、少しのとがには参る者これあれども、かやうの科の者は中々今川殿·北条殿へは不参、尾州信長も庚申の年の五月今川殿と合戦に勝、義元を討とり、其いきはひにて尾州を随へ、同年のくれに美濃の国へとりかけ、七年戦かふて七年目寅の年と申すに信長公三十三のとし美濃·尾張両国の主と成給ふ、彼彥介が仕合せも右申の歳、殊更三月なれば未た信長も尾州さへみなもたぬ時にてあれば、信長へと疑ひやうもなし、猶以て家康は其年十九歳の六月までは元康と申、駿河今川殿御旗下なり、騎河·遠江·三河三ケ国今川殿の御国なる故、家康も岡崎の城一ツやう〳〵所持に付、
書き下し
右金丸平三郎をきりたる落合彥介何方へ可参と僉議まち〳〵なり、然れ共駿河今川殿小田原北条殿いづれも其比は御無事にてましませば、少しのとがには参る者これあれども、かやうの科の者は中々今川殿·北条殿へは不参、尾州信長も庚申の年の五月今川殿と合戦に勝、義元を討とり、其いきはひにて尾州を随へ、同年のくれに美濃の国へとりかけ、七年戦かふて七年目寅の年と申すに信長公三十三のとし美濃·尾張両国の主と成給ふ、彼彥介が仕合せも右申の歳、殊更三月なれば未た信長も尾州さへみなもたぬ時にてあれば、信長へと疑ひやうもなし、猶以て家康は其年十九歳の六月までは元康と申、駿河今川殿御旗下なり、騎河·遠江·三河三ケ国今川殿の御国なる故、家康も岡崎の城一ツやう〳〵所持に付、
現代語訳
右の金丸平三郎を斬りたる落合彦助は、いずかたへ参るべきと僉議がまちまちなり。しかれども、駿河の今川殿・小田原の北条殿はいずれもその頃は御無事にてましませば、少しの咎には参る者もこれあれども、このような科の者はなかなか今川殿・北条殿へは参らず。尾州の信長も庚申の年の五月に今川殿と合戦に勝ち、義元を討ち取り、その勢いにて尾州を随え、同年の暮に美濃の国へ取りかけ、七年戦うて七年目、寅の年と申すに信長公は三十三の年、美濃・尾張両国の主となり給う。かの彦助の仕合わせも右の申の年、ことさら三月なれば、いまだ信長も尾州さえみな持たぬ時にてあれば、信長へとは疑いようもなし。なおもって家康は、その年十九歳の六月までは元康と申し、駿河今川殿の御旗下なり。駿河・遠江・三河の三か国は今川殿の御国であるゆえに、家康も岡崎の城一つをようよう所持につき、これへ参るべしと申す事にてもなし。
解説
この章句が説くこと
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『甲陽軍鑑』品第四十稍や有て仰らるゝ、長坂長閑尋べき事あり、三河の国岡崎家康と云ふ若者は当年はいくつばかりの侍ときゝつると尋給ふ、長坂長閑申は、寅の歳にて当年二十五歳と承り及び候、信玄公仰らるゝ、義元討死の時節より当年まで七年なるが、件の家康十九歳より今までに三河国一国をおさめ候に付、しかも彼国日本六十余州にて人のかぞゆる侍の武篇持く国なれば、合戦の儀年に二度はあれ共一度なき事なし、旣に家康或時は浄土寺へ行き知識にあひ、念仏の十念と云ふ物をとり疑がひをきつて、敵三千ばかりを我人数二百の内外にて家康勝利を得たる共きゝつるぞ、
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『甲陽軍鑑』品第六さる間竹千世殿駿州今川義元公に属し給ひ蔵人元康と元服し給ひ、十五歳にて参州岡崎へ帰城有て、十九歳の五月義元公の先手として尾州へ発向ある義元の先陣の人々大高の城をせめ落し、番手に元康を置給ふ翌日義元公討死し給ふと元康公伯父水野下野方より以飛脚告げ来る、
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『甲陽軍鑑』品第四十信長尾張一国ならば互に尾張·三河にてみかたとばかり申すべく候へ共、信長国数をとり大身に成に付、家康は一国にて無事なれば、一国の方をはたしたと云ふ、かやうの事も生れ替りの家にてはわかき衆其たてわけをしらねば、武士道無案内のやうに候と小宮山内膳·小山田彥三郎両人に、もろが入道がゝへたるを高坂弾正聞き候て、くどけれども紙面にあらはし、わかき衆にせんさくよくなされよとの儀なり、
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『甲陽軍鑑』品第四十是れは小身なる侍の事、大身の上には一のおほへ大合戦こぜりあひ、二のおぼへ城せめ、第一には人をよく見知、国の仕置見る事になさるゝ事、是は又国半国とも、もつ大将の御手抦是なり、然る間右の家康は十二年以前に十九歳にて尾州大高の覚へ、三河国一の宮の後詰、同かんだいじの合戦、吉良にての合戦、山中の平ぜめ信長すけ、江州あね川合戦偏へに家康武功故信長の勝利と云ふ、同若狭の国にて信長にすてられたる時の家康はたらき、遠州懸川にて今川氏真をせめて氏真に降参させ申事、其外三河国において七年に大方七度の合戦有りと聞く、
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『甲陽軍鑑』品第六さて蔵人元康は義元公討死の其はたらきにはや元康をあらためて家康と名乗給ひ、其年の暮に伯父の野州あつかひをもつて家康と信長和睦の儀有之、尾州に事出来らは家康公信長へ加勢し、三州に事出来らは信長公家康公へ加勢有べしと互に起請文を取かはし内々無事を作り給ふ、見合の儀を今川衆家康表裡と申事一向無勿体儀なり、
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『甲陽軍鑑』品第四十扨て家康は義元公討死より以降十年内外の国持ちなるが、駿河さかりの作法をおさなくて見きいたる儀ならん、信玄公の奉行衆公事さばく、様子に少し相似たるごとくなり、何にても公事の落着はめづらしき事きかね共、それは昨今の家康国持なる故、各々の感じ給ふことはまだ十年過ぎてもあるまじ、あの若き家康申付る三人の奉行に三様の形義をいひつけたるとみへて、仏かうりき·鬼作左·どちへんなしの天野三兵と浜松にて落書にたてたると聞く、