甲陽軍鑑 / 品第四十八
又寺に女をめし置とあるは、よの宗旨は何共あれ、淨土宗は不苦、子細は淨土三部經に、五百侍女發阿耨多羅三藐三菩提心願生彼國と觀經第十六觀にあり、侍女と云ふは侍ひ女の事也、侍女が五百人ゆかば此僧が取てをくほとの下女は、千人も有べし、それをしらずして坊主の所に女の居ると云ふて誹はぶせんさくなるさたなり、
新字:又寺に女をめし置とあるは、よの宗旨は何共あれ、浄土宗は不苦、子細は浄土三部経に、五百侍女発阿耨多羅三藐三菩提心願生彼国と観経第十六観にあり、侍女と云ふは侍ひ女の事也、侍女が五百人ゆかば此僧が取てをくほとの下女は、千人も有べし、それをしらずして坊主の所に女の居ると云ふて誹はぶせんさくなるさたなり、
書き下し
又寺に女をめし置とあるは、よの宗旨は何共あれ、浄土宗は不苦、子細は浄土三部経に、五百侍女発阿耨多羅三藐三菩提心願生彼国と観経第十六観にあり、侍女と云ふは侍ひ女の事也、侍女が五百人ゆかば此僧が取てをくほとの下女は、千人も有べし、それをしらずして坊主の所に女の居ると云ふて誹はぶせんさくなるさたなり、
現代語訳
また寺に女を召し置くとあるは、他の宗旨は何ともあれ、浄土宗は苦しからず。子細は、浄土三部経に、五百の侍女が阿耨多羅三藐三菩提の心を発し彼の国に生ぜんと願うと、観経第十六観にあり。侍女と言うは侍い女の事である。侍女が五百人行かば、この僧が取って置くほどの下女は千人もあるべし。それを知らずして、坊主の所に女が居ると言うて誹るは、無詮索なる沙汰なり。
解説
寺に女がいることを、その宗の経典から説き起こす。観経に五百の侍女が往生を願うとあるのだから、女がいるだけで咎めるのは経を知らぬ者の言い草だと切り返す。相手の宗の中にある理で守っている。相手の宗の中にある理で守っている。観経に五百の侍女が往生を願うとあるのだから、女がいるだけで咎めるのは経を知らぬ者の言い草だという切り返しである。
この章句が説くこと
観経侍女浄土宗経典無詮索信玄
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