甲陽軍鑑 / 品第四十
扨て家康は義元公討死より以降十年內外の國持ちなるが、駿河さかりの作法をおさなくて見きいたる儀ならん、信玄公の奉行衆公事さばく、樣子に少し相似たるごとくなり、何にても公事の落着はめづらしき事きかね共、それは昨今の家康國持なる故、各々の感じ給ふことはまだ十年過ぎてもあるまじ、あの若き家康申付る三人の奉行に三樣の形義をいひつけたるとみへて、佛かうりき·鬼作左·どちへんなしの天野三兵と濱松にて落書にたてたると聞く、
新字:扨て家康は義元公討死より以降十年内外の国持ちなるが、駿河さかりの作法をおさなくて見きいたる儀ならん、信玄公の奉行衆公事さばく、様子に少し相似たるごとくなり、何にても公事の落着はめづらしき事きかね共、それは昨今の家康国持なる故、各々の感じ給ふことはまだ十年過ぎてもあるまじ、あの若き家康申付る三人の奉行に三様の形義をいひつけたるとみへて、仏かうりき·鬼作左·どちへんなしの天野三兵と浜松にて落書にたてたると聞く、
書き下し
扨て家康は義元公討死より以降十年内外の国持ちなるが、駿河さかりの作法をおさなくて見きいたる儀ならん、信玄公の奉行衆公事さばく、様子に少し相似たるごとくなり、何にても公事の落着はめづらしき事きかね共、それは昨今の家康国持なる故、各々の感じ給ふことはまだ十年過ぎてもあるまじ、あの若き家康申付る三人の奉行に三様の形義をいひつけたるとみへて、仏かうりき·鬼作左·どちへんなしの天野三兵と浜松にて落書にたてたると聞く、
現代語訳
さて家康は義元公の討死より以降、十年内外の国持ちであるが、駿河の盛りの作法を幼くて見聞きした儀であろう。信玄公の奉行衆が公事を裁く様子に少し相似たようである。何にせよ公事の落着は珍しい事を聞かないけれども、それは昨今の家康が国持ちであるゆえに、それぞれが感じられる事はまだ十年過ぎてもあるまい。あの若い家康が申し付ける三人の奉行に、三様の行儀を言いつけたと見えて、仏高力、鬼作左、どちへんなしの天野三兵と浜松で落書に立てられたと聞く。
解説
この章句が説くこと
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『甲陽軍鑑』品第四十扨又一年我等共卅計りの時分信州更科の出家、公事に武藤殿·桜井殿若き時、今井殿計り宿老今福浄閑中老なるが、四人歳もかたぎも各別なるを、奉行に信玄公仰付けられたる様子に、此程の家康が少づゝ似たるは不思儀なりと山県三郎兵衛かたれば、馬塲美濃·内藤·高坂各申さるこは、何様家康たゞものにてはなしと各いはるこ、
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