甲陽軍鑑 / 品第四十
若手の家康强敵にて、しかも懸引よく仕るやさしき武士なり、去ながら此家康も申の極月に我城ぎはにてをくれをとる、翌年の二月のだの城へ信玄公とりつめ給ひ、四郞殿·典厩兩大將をもつて彼城菅沼新八郞をせめらるゝ時、家康なればこそ、のだのうへの山まで出、山縣三郞兵衞組衆、各 馬塲美濃守二の手にてをしはらひ、終にはのだ落城する、其節家康より信長へ小栗大山といふ家康近習の者を五度まで使にこせ共、信長出ずして菅沼新八郞城をわたす、
新字:若手の家康强敵にて、しかも懸引よく仕るやさしき武士なり、去ながら此家康も申の極月に我城ぎはにてをくれをとる、翌年の二月のだの城へ信玄公とりつめ給ひ、四郎殿·典厩両大将をもつて彼城菅沼新八郎をせめらるゝ時、家康なればこそ、のだのうへの山まで出、山県三郎兵衛組衆、各 馬塲美濃守二の手にてをしはらひ、終にはのだ落城する、其節家康より信長へ小栗大山といふ家康近習の者を五度まで使にこせ共、信長出ずして菅沼新八郎城をわたす、
書き下し
若手の家康强敵にて、しかも懸引よく仕るやさしき武士なり、去ながら此家康も申の極月に我城ぎはにてをくれをとる、翌年の二月のだの城へ信玄公とりつめ給ひ、四郎殿·典厩両大将をもつて彼城菅沼新八郎をせめらるゝ時、家康なればこそ、のだのうへの山まで出、山県三郎兵衛組衆、各 馬塲美濃守二の手にてをしはらひ、終にはのだ落城する、其節家康より信長へ小栗大山といふ家康近習の者を五度まで使にこせ共、信長出ずして菅沼新八郎城をわたす、
現代語訳
若手の家康は強敵にて、しかも駆け引きをよくいたす優しき武士である。さりながら、この家康も申の極月に我が城際にて後れを取る。翌年の二月、野田の城へ信玄公が取り詰め給い、四郎殿・典厩の両大将をもって、かの城の菅沼新八郎を攻められる時、家康なればこそ野田の上の山まで出る。山県三郎兵衛の組衆それぞれ、馬場美濃守が二の手にて押し払い、ついには野田が落城する。その節、家康より信長へ小栗大山という家康近習の者を五度まで使いに越したけれども、信長は出ずして、菅沼新八郎が城を渡す。
解説
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『甲陽軍鑑』品第三十九扨信長·家康は互にあなたをすけ、こなたをすけ、利運に互に仕り、すでにもつて信長はまきたる城をまきほぐし、味方を捨、退口あらき事数度あり、然も一向坊主などを敵にして、家康なくば成間敷候、本より家康は少身なる若気也、又奥両国にも輝虎ほどなる大将なし、四国·九国にも毛利元就程なるはなし、日本国中に右の大将衆程の誉れの侍、今は大唐にもなきと聞ゆる、然所に信玄手がらは若き時分より他国の大将をたのみ馬を出させ、両旗をもつて弓矢を取たる事一度もなし、まきたる城をまきほぐしたる事一度もなし、味方の城を一ツと敵に取しかれたる事なし、甲州のうちに城墎をかまへ用心する事もなく、屋敷がまへにて罷在、
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『甲陽軍鑑』品第四十家康いま信長と二世迄の入魂につき両方加勢をすけあひ、それ故ふたりけんごなれ共、信長敵は上方十四ヶ国の間にて信長に国とられぬをもとにして、信長国へとりかけんと存ずる武士一人もなき故かくのごとく次第に大身なる、家康はいつまでも三河一国、遠州三ケ一ならば終には家康·信長被官のやうになりて後祝言は申しつ、信玄公の明日にも目をふさぎ給はゝ信長安堵して、今こそ嫡子の城介殿と同意に思ふとて、三ツの桃を一ツ送る共、强敵·大敵の六ケ敷信玄公御座なくば家康を信長ころし候はん、それに大事なくば家康果報の儀、少々のかんがへには成りかね申さんと高坂がいへば、馬塲美濃大誓文をたて我等もそれなりと云ふ、内藤修理も同誓文にて右の通りなり一或時小笠原慶安斎へ宿老衆振舞によりあふて、
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『甲陽軍鑑』品第四十是れは小身なる侍の事、大身の上には一のおほへ大合戦こぜりあひ、二のおぼへ城せめ、第一には人をよく見知、国の仕置見る事になさるゝ事、是は又国半国とも、もつ大将の御手抦是なり、然る間右の家康は十二年以前に十九歳にて尾州大高の覚へ、三河国一の宮の後詰、同かんだいじの合戦、吉良にての合戦、山中の平ぜめ信長すけ、江州あね川合戦偏へに家康武功故信長の勝利と云ふ、同若狭の国にて信長にすてられたる時の家康はたらき、遠州懸川にて今川氏真をせめて氏真に降参させ申事、其外三河国において七年に大方七度の合戦有りと聞く、
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『甲陽軍鑑』品第四十今明年の間に右の家康と一戦なうてかなふまじ、さあるに付ては信長も後をかんがへ、今こそ当家と縁辺の無事なり共、家康へ信長加勢あらば両家を相手になされ、信玄公合戦をとげられ、都までほまれのためなれば、是には猶以て軍法のいる所なりと穴山殿に馬塲美濃守申きかす也穴山伊豆守殿馬塲美濃守に又とはるゝ、
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『甲陽軍鑑』品第四十信長国へだち信玄輝虎と終に武篇の参会無之、就中唯今は信長の嫡子城之介殿信玄公御婿にとある縁辺なり、さるに付信長手だてなさるべき敵さのみなし、十二年以前今川義元公と合戦の刻、信長二十七歳にて無類の手抦是なり、其比信長少身にて若ければ、大敵には種々謀ごとありて信長勝利を得給ふなり、謀行の軍法なき弓矢は縦へば下手のあつまりてする能見物のごとし、仕そこなはんと思ひ、見ながらあぶなく候、信長の弓矢も美濃の国と七年の間取合て武功の分別定まるなり、
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『甲陽軍鑑』品第十四うたひ申す其越前金ヶ崎の時、三河家康信長を助けて若狭国へ働給ふ、浅井備前、越前をすけて金ヶ崎へ後詰と聞せ給ふ、信長は家康をすて敗軍なるを、家康は若狭侍を思ひのまゝにしづめ尋常に退き給ふ、近国へきこゆる若き者の剛なる心ばせなり、家康廿六七歳の時分かと覚へ候が、信長十双倍も强よからんと信玄家にても批判あり、