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甲陽軍鑑 / 品第六

義元運の末にや是を實なりとおほして、彼新左衞門をめすに駿府までまいるに及ばずとて、參州吉田において速に頭をぞはねられける、其四年にあたつて庚申しかも七庚申ある歲の五月信長廿七の御年人數七百斗り、義元公人數二萬餘りを卒して出給ふ、于時駿河勢所々へ亂坊に散たる隙をうかどひ、味方の眞似をして駿河勢に入交る、義元は三河の國の僧と路次のかたはらの松原にて酒盛しておはします所へ、信長伐てかゝり終に義元の頸を取給ふ、此一戰の手柄によつて於日本其名を得給ふ、是とても件の戶部新左衞門存命においては中々可爲難儀處に信長公智謀深く陳平張良が項王の使者をはかりしに不異、信長公消息の行は廿四歲の御時也、

新字:義元運の末にや是を実なりとおほして、彼新左衛門をめすに駿府までまいるに及ばずとて、参州吉田において速に頭をぞはねられける、其四年にあたつて庚申しかも七庚申ある歳の五月信長廿七の御年人数七百斗り、義元公人数二万余りを卒して出給ふ、于時駿河勢所々へ乱坊に散たる隙をうかどひ、味方の真似をして駿河勢に入交る、義元は三河の国の僧と路次のかたはらの松原にて酒盛しておはします所へ、信長伐てかゝり終に義元の頸を取給ふ、此一戦の手柄によつて於日本其名を得給ふ、是とても件の戸部新左衛門存命においては中々可為難儀処に信長公智謀深く陳平張良が項王の使者をはかりしに不異、信長公消息の行は廿四歳の御時也、

書き下し

義元運の末にや是を実なりとおほして、彼新左衛門をめすに駿府までまいるに及ばずとて、参州吉田において速に頭をぞはねられける、其四年にあたつて庚申しかも七庚申ある歳の五月信長廿七の御年人数七百斗り、義元公人数二万余りを卒して出給ふ、于時駿河勢所々へ乱坊に散たる隙をうかどひ、味方の真似をして駿河勢に入交る、義元は三河の国の僧と路次のかたはらの松原にて酒盛しておはします所へ、信長伐てかゝり終に義元の頸を取給ふ、此一戦の手柄によつて於日本其名を得給ふ、是とても件の戸部新左衛門存命においては中々可為難儀処に信長公智謀深く陳平張良が項王の使者をはかりしに不異、信長公消息の行は廿四歳の御時也、

現代語訳

義元は運の末であったのか、これを真実と思われて、あの新左衛門を召したが、駿府まで参るには及ばぬといって、参州吉田において速やかに首をはねられた。その四年にあたって、庚申、しかも七庚申ある年の五月、信長二十七の御年、人数七百ばかり。義元公は人数二万余りを率いて出られた。その時、駿河勢が所々へ乱妨に散った隙をうかがい、味方の真似をして駿河勢に入り交じる。義元は三河の国の僧と、路次のかたわらの松原で酒盛りをしておられる所へ、信長が討ってかかり、ついに義元の首を取られた。この一戦の手柄によって、日本においてその名を得られた。これとても、あの戸部新左衛門が存命であったなら、なかなか難儀となるところに、信長公は智謀が深く、陳平や張良が項王の使者をはかったのと違わない。信長公が消息を行ったのは二十四歳の御時である。

解説

桶狭間の勝ちを、四年前の一通の偽手紙から説き起こしている。もし戸部が生きていれば難儀だったろう、と書き手は言う。当日の奇襲は仕上げであって、勝負は下ごしらえで決まっていたという見方である。陳平・張良に並べているのもその評価による。当日の奇襲は仕上げであって、勝負は下ごしらえで決まっていたという見方である。陳平や張良に並べているのも、その評価によっている。

この章句が説くこと

桶狭間信長義元奇襲下準備

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