甲陽軍鑑 / 品第十六
又他國にても遠からぬ、九年以前の庚申の年の五月、今川義元公討死の刻、今川家の家老、岡部丹波守尾州星崎の城にて古今まれなる手抦をいたす故、義元公は討死なれども信長公今川家を奥深く思ひ給ひ、氏眞公無分別微弱にておはしませど、今に駿河長久なるは偏へに岡部丹波守が、武道の心ばせちがへさるをもつてなり、又三州家康公も、右義元公御討死の節、尾州大高の城にて武道の御心ばせあさからざるをもつて、近國·遠國までも其名かくれなし、其武道たがはせ給はぬ故、
新字:又他国にても遠からぬ、九年以前の庚申の年の五月、今川義元公討死の刻、今川家の家老、岡部丹波守尾州星崎の城にて古今まれなる手抦をいたす故、義元公は討死なれども信長公今川家を奥深く思ひ給ひ、氏真公無分別微弱にておはしませど、今に駿河長久なるは偏へに岡部丹波守が、武道の心ばせちがへさるをもつてなり、又三州家康公も、右義元公御討死の節、尾州大高の城にて武道の御心ばせあさからざるをもつて、近国·遠国までも其名かくれなし、其武道たがはせ給はぬ故、
書き下し
又他国にても遠からぬ、九年以前の庚申の年の五月、今川義元公討死の刻、今川家の家老、岡部丹波守尾州星崎の城にて古今まれなる手抦をいたす故、義元公は討死なれども信長公今川家を奥深く思ひ給ひ、氏真公無分別微弱にておはしませど、今に駿河長久なるは偏へに岡部丹波守が、武道の心ばせちがへさるをもつてなり、又三州家康公も、右義元公御討死の節、尾州大高の城にて武道の御心ばせあさからざるをもつて、近国·遠国までも其名かくれなし、其武道たがはせ給はぬ故、
現代語訳
また他国でも遠からぬ九年前、庚申の年の五月、今川義元公が討死の折、今川家の家老である岡部丹波守が尾州星崎の城で古今稀な手柄をいたしたゆえに、義元公は討死であっても信長公は今川家を奥深く思われ、氏真公は無分別で微弱でおられるけれども、今に駿河が長久であるのは、ひとえに岡部丹波守の武道の心ばえが違わなかったからである。また三州の家康公も、右の義元公御討死の節、尾州大高の城で武道の御心ばえが浅からぬことによって、近国・遠国までもその名が隠れない。
解説

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『甲陽軍鑑』品第六さる間竹千世殿駿州今川義元公に属し給ひ蔵人元康と元服し給ひ、十五歳にて参州岡崎へ帰城有て、十九歳の五月義元公の先手として尾州へ発向ある義元の先陣の人々大高の城をせめ落し、番手に元康を置給ふ翌日義元公討死し給ふと元康公伯父水野下野方より以飛脚告げ来る、
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『甲陽軍鑑』品第六義元運の末にや是を実なりとおほして、彼新左衛門をめすに駿府までまいるに及ばずとて、参州吉田において速に頭をぞはねられける、其四年にあたつて庚申しかも七庚申ある歳の五月信長廿七の御年人数七百斗り、義元公人数二万余りを卒して出給ふ、于時駿河勢所々へ乱坊に散たる隙をうかどひ、味方の真似をして駿河勢に入交る、義元は三河の国の僧と路次のかたはらの松原にて酒盛しておはします所へ、信長伐てかゝり終に義元の頸を取給ふ、此一戦の手柄によつて於日本其名を得給ふ、是とても件の戸部新左衛門存命においては中々可為難儀処に信長公智謀深く陳平張良が項王の使者をはかりしに不異、信長公消息の行は廿四歳の御時也、
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『甲陽軍鑑』品第四十信長国へだち信玄輝虎と終に武篇の参会無之、就中唯今は信長の嫡子城之介殿信玄公御婿にとある縁辺なり、さるに付信長手だてなさるべき敵さのみなし、十二年以前今川義元公と合戦の刻、信長二十七歳にて無類の手抦是なり、其比信長少身にて若ければ、大敵には種々謀ごとありて信長勝利を得給ふなり、謀行の軍法なき弓矢は縦へば下手のあつまりてする能見物のごとし、仕そこなはんと思ひ、見ながらあぶなく候、信長の弓矢も美濃の国と七年の間取合て武功の分別定まるなり、
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