甲陽軍鑑 / 品第十六
右庚申の年より丁卯まで八ヶ年の間に、我生國をおさめ今卅より內廿七歲にて、三河一國の諸侍悉く家康公の被官となる、しかも大高にての時分は家康公十九歲の時なり、其年に當て三州の內一の宮の城に家康內の者、本田百介と云ふ者籠りたるを、氏眞公出馬し給ひ、信虎公も御出有り、其時氏眞公の人數駿河·遠江·東三河を始め悉く引具し一萬八千にてせめ給へども百介こらへて城をあけず其後家康公三千ばかりにて後詰めをし給ひ、駿河勢をおひはらい、家康堅固にしてしばらく城を持ち給ふ、
新字:右庚申の年より丁卯まで八ヶ年の間に、我生国をおさめ今卅より内廿七歳にて、三河一国の諸侍悉く家康公の被官となる、しかも大高にての時分は家康公十九歳の時なり、其年に当て三州の内一の宮の城に家康内の者、本田百介と云ふ者籠りたるを、氏真公出馬し給ひ、信虎公も御出有り、其時氏真公の人数駿河·遠江·東三河を始め悉く引具し一万八千にてせめ給へども百介こらへて城をあけず其後家康公三千ばかりにて後詰めをし給ひ、駿河勢をおひはらい、家康堅固にしてしばらく城を持ち給ふ、
書き下し
右庚申の年より丁卯まで八ヶ年の間に、我生国をおさめ今卅より内廿七歳にて、三河一国の諸侍悉く家康公の被官となる、しかも大高にての時分は家康公十九歳の時なり、其年に当て三州の内一の宮の城に家康内の者、本田百介と云ふ者籠りたるを、氏真公出馬し給ひ、信虎公も御出有り、其時氏真公の人数駿河·遠江·東三河を始め悉く引具し一万八千にてせめ給へども百介こらへて城をあけず其後家康公三千ばかりにて後詰めをし給ひ、駿河勢をおひはらい、家康堅固にしてしばらく城を持ち給ふ、
現代語訳
その武道を違えられなかったゆえに、右の庚申の年から丁卯まで八年のあいだに、我が生国を治め、今は三十より内の二十七歳で、三河一国の諸侍がことごとく家康公の被官となった。しかも大高での時分は、家康公は十九歳の時である。その年に当たって、三州のうち一の宮の城に家康の内の者、本多百介という者が籠もったのを、氏真公が出馬され、信虎公もお出ましになった。その時、氏真公の人数は駿河・遠江・東三河をはじめことごとく引き連れて一万八千であったけれども、百介は堪えて城を明けず、その後、家康公が三千ばかりで後詰めをされ、駿河勢を追い払い、家康は堅固にしてしばらく城を持たれた。
解説
この章句が説くこと
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『甲陽軍鑑』品第十六雖然此城不入城なりとて、其日本田百介を召し具し、家康公城をあけて岡崎へ帰陣し給ふ、是家康公廿一歳の時なり是れとても三年前大高に於て家康公城をあけず、味方の一左右を聞き届け、大高を立ち退きたる大强の其下の本田百介にて、一の宮の城を持ちこらへあけずして、今川家の人々に深くおもはるゝ事若手なれども、家康男道のきつかけをはづし給はぬ故ぞかし、
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『甲陽軍鑑』品第四十是れは小身なる侍の事、大身の上には一のおほへ大合戦こぜりあひ、二のおぼへ城せめ、第一には人をよく見知、国の仕置見る事になさるゝ事、是は又国半国とも、もつ大将の御手抦是なり、然る間右の家康は十二年以前に十九歳にて尾州大高の覚へ、三河国一の宮の後詰、同かんだいじの合戦、吉良にての合戦、山中の平ぜめ信長すけ、江州あね川合戦偏へに家康武功故信長の勝利と云ふ、同若狭の国にて信長にすてられたる時の家康はたらき、遠州懸川にて今川氏真をせめて氏真に降参させ申事、其外三河国において七年に大方七度の合戦有りと聞く、
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『甲陽軍鑑』品第四十稍や有て仰らるゝ、長坂長閑尋べき事あり、三河の国岡崎家康と云ふ若者は当年はいくつばかりの侍ときゝつると尋給ふ、長坂長閑申は、寅の歳にて当年二十五歳と承り及び候、信玄公仰らるゝ、義元討死の時節より当年まで七年なるが、件の家康十九歳より今までに三河国一国をおさめ候に付、しかも彼国日本六十余州にて人のかぞゆる侍の武篇持く国なれば、合戦の儀年に二度はあれ共一度なき事なし、旣に家康或時は浄土寺へ行き知識にあひ、念仏の十念と云ふ物をとり疑がひをきつて、敵三千ばかりを我人数二百の内外にて家康勝利を得たる共きゝつるぞ、
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『甲陽軍鑑』品第四十家康今年は定めて三十斗りにても有らん、四十に及び殊に大身の信長にいつ位もましの、しまり所ある分別あり、さすがに武士の心ばせなき者ならば、年こばいに相似あはぬとも申さんずるが、三河の国おさむるとて十九歳より廿六歳迄八年の間に粉骨をつくし、せんかうのほまれかたのごとくなれば、海道一番の武士と申しながら日本国にもあまり多くはあるまじ、丹波の赤井·江北の浅井備前守·四国の長宗家部·会津の盛氏若手には此家康ならん、扨時過ぎたる此桃をすてたる分別出世をかんがへて如此、其出世とは年明ば吉事也、此心は馬塲美濃·内藤修理·高坂は定めて合点つかまつるべきとのたまふなり、
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『甲陽軍鑑』品第六さる間竹千世殿駿州今川義元公に属し給ひ蔵人元康と元服し給ひ、十五歳にて参州岡崎へ帰城有て、十九歳の五月義元公の先手として尾州へ発向ある義元の先陣の人々大高の城をせめ落し、番手に元康を置給ふ翌日義元公討死し給ふと元康公伯父水野下野方より以飛脚告げ来る、
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『甲陽軍鑑』品第六其夜は大高の城に逗留し玉ひ翌日岡崎より今川の家老以使札大高の城あけ来り給へとの事也、即其状を取て證拠とし元康帰陣し給ふ、此趣信玄公詳に糺て聞給ひ、元康は武道分別両方達したる人也、於日本若手の武士ならんと不斜ほめ給ふ、