甲陽軍鑑 / 品第四十
冥加ゆへならんと云人も有、執々のさたなれど、今井九兵衛もあまりあしき人にてはあるまじきが、何とぞかせくよう御座候や、此ことはりを仰せきかせ被下べしと、小山田彌三郎申せば、馬塲美濃申さるゝは、
新字:冥加ゆへならんと云人も有、執々のさたなれど、今井九兵衛もあまりあしき人にてはあるまじきが、何とぞかせくよう御座候や、此ことはりを仰せきかせ被下べしと、小山田弥三郎申せば、馬塲美濃申さるゝは、
書き下し
冥加ゆへならんと云人も有、執々のさたなれど、今井九兵衛もあまりあしき人にてはあるまじきが、何とぞかせくよう御座候や、此ことはりを仰せきかせ被下べしと、小山田弥三郎申せば、馬塲美濃申さるゝは、
現代語訳
冥加ゆえであろうと言う人もある。それぞれの沙汰であるけれども、今井九兵衛もあまり悪い人ではあるまいが、どうにか稼ぐようがございますか。この道理を仰せ聞かせ下されたいと、小山田弥三郎が申せば、馬場美濃が申されるには。
解説
運のよさで片づける説を紹介したうえで、それでは納得しないと食い下がる。しかも、傷ばかり負う今井九兵衛も悪い人ではあるまい、と相手を落とさずに問う。技術として説明できるはずだ、という前提が問いの側にある。技術として説明できるはずだ、という前提が問いの側にある。しかも傷ばかり負う者を落とさずに問うところに、この問いの品がある。
この章句が説くこと
冥加運問技術小山田馬場
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『甲陽軍鑑』品第四十旣に貴殿は当屋形信玄公に七歳さきの人にて候へば、信虎公の御代にも其方十七歳より陣をなされ、八年の功瑳の上、信玄公の御代にも七八年は小身にて、しかも時により先衆の中へもまじり給ひ、右二代の間に廿一度武篇·塲数の御證文の中に諸手にすぐれたるとある儀九ツ御座候、御感状を信虎公·信玄公御父子より馬塲美濃殿に被下たりと云ふ儀承り及びたるが、たゞ事ならぬ冥加の人にて、ことに手疵を一ケ所もおひ給はず候、貴殿にくらべて申には努々なし、喩にて申、今井九兵衛は、せりあひ·合戦の初まると即時手を負ふて、此時代の衆の中にて覚になる誉れ一度もなし、是も形のごとくの人なれど、
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