甲陽軍鑑 / 品第四十
今信玄の仕置城介殿·三助殿信長に相似て如形の若き衆たちにても信長死後にはあぶなし、と高坂彈正が眞田安房守にをしへて信長公の御うはさを申いたし候、
新字:今信玄の仕置城介殿·三助殿信長に相似て如形の若き衆たちにても信長死後にはあぶなし、と高坂弾正が真田安房守にをしへて信長公の御うはさを申いたし候、
書き下し
今信玄の仕置城介殿·三助殿信長に相似て如形の若き衆たちにても信長死後にはあぶなし、と高坂弾正が真田安房守にをしへて信長公の御うはさを申いたし候、
現代語訳
今、信玄の仕置きに比べれば、城介殿・三助殿は信長に相似て形のとおりの若き衆たちであっても、信長の死後には危ういと、高坂弾正が真田安房守に教えて、信長公の御噂を申し出し候。
解説
息子たちが父によく似ていても、それでは足りないと結ぶ。仕置きが後の三年を持たせるようにできているかどうかが分かれ目で、器量のよい跡取りがいることとは別の話だという。冒頭で述べた見立てが、ここでもう一度置き直される。冒頭で述べた見立てが、ここでもう一度置き直される。器量のよい跡取りがいることと、仕置きが三年持つことは別に数えられている。
この章句が説くこと
信長城介仕置跡目危うさ高坂
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『甲陽軍鑑』品第四十信長の仕置今はまづあやうし、子細は内の衆に大国をくれて国主に各を仕らるゝ、其中に名人のなき事は有るまじ、さありて明日にも信長病死ならば、子息城介殿二代の大身なる故、何としてもよろづこまかに有るまじ、又仕出での侍は何事もめいさいなれば、本からの大身と仕出での大身とくらぶれば、一ツ時代には仕出での方かつ物にて候、さなくして信長仕置さへよくば嫡子城介信忠も舎弟伊勢国司に定めらるゝ三助も、殊の外能くむまれつきたる大将ときこへ候間少しも子細なく、信長死後にもおさまり候はんと高坂弾正が真田安房守にいひをしゆるなり、
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『甲陽軍鑑』品第四十一真田源太左衛門·同兵部介長篠にて討死の後、弟武藤喜兵衛に兄の跡を勝頼公下され真田安房守と申す、此安房守或時高坂弾正に問ふ、信長長篠におひて当屋形勝頼公にかち、其勢をもつて越前の朝倉伊勢国司名をたやす、さありて四国·西国·関東奥までも末にはおさめん事去年長篠合戦に信長勝利を得て一入如此、然れ共信長只今の仕置頼朝·北条家或は尊氏などのやうに代替り迄無事に候て、末代迄も人の沙汰するほど信長仕置も可在之と高坂弾正殿見給ひ候哉、願はくは此批判被成候へと真田安房守いへば弾正いはく、
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『甲陽軍鑑』品第四十是を高坂弾正聞ていはく、此御曹司太郎信勝は近代の名人の大将衆安芸の元就·北条氏康·北越の輝虎·尾州信長·三州の家康·祖父信玄公おさな立に相似たる信勝にてましませばと、只今武田の家万事まつりごとみだりになり、去々年長篠にて勝頼公御分別相違故、長坂長閑·跡部大炊助両人のいさめをもつて信玄公取立の衆尽く討死候て猶家風あしくなり、終に武田の滅却に付ては太郎信勝公のよき生れつきもいらず、むなしく相果て給はんと高坂なみだをながすばかりなり、
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『甲陽軍鑑』品第四十一真田安房守又高坂弾正に問ふ、大敵のおさへにならばせめて一国をあたへずしては都あやうからん、爰をもつて信長も又此外別に仕置有るまじ、但し何とぞ今の仕様より様子よきもやう御座あるや、願はくは高坂弾正殿工夫をきかんと真田安房守いへば、高坂弾正申、我等式の存ずる事ありとても、それはふかこらぬ儀なり、
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『甲陽軍鑑』品第四十扨又一年我等共卅計りの時分信州更科の出家、公事に武藤殿·桜井殿若き時、今井殿計り宿老今福浄閑中老なるが、四人歳もかたぎも各別なるを、奉行に信玄公仰付けられたる様子に、此程の家康が少づゝ似たるは不思儀なりと山県三郎兵衛かたれば、馬塲美濃·内藤·高坂各申さるこは、何様家康たゞものにてはなしと各いはるこ、
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『甲陽軍鑑』品第四十たとへ信玄が死する跡にて何たる分別なき侍に代をつがするとも三年はたもたん、まへの大将死して三年たもつやうにするは前代の手がらなり、四年目からは後の大将分別よければ、ほまれあしければ恥なり、就中天下の儀二代たもつは、たゝの家百代たもつより弓箭を取てのほまれなりと信玄公の仰られつるを存ずれば、