甲陽軍鑑 / 品第三十九
跡の儀は四郞むすこ信勝十六歲の時家督なり、其間は陣代を四郎勝賴と申付候、但し武田の旗はもたする事無用なり、まして我そんしのはた·將軍地藏の旗·八幡大菩薩の小旗、何も一せつ持すべからず、太郞信勝十六歲にて家督、初陣孫子の時尊師の旗斗り殘し、よの旗は何も出すべきなり、
新字:跡の儀は四郎むすこ信勝十六歳の時家督なり、其間は陣代を四郎勝頼と申付候、但し武田の旗はもたする事無用なり、まして我そんしのはた·将軍地蔵の旗·八幡大菩薩の小旗、何も一せつ持すべからず、太郎信勝十六歳にて家督、初陣孫子の時尊師の旗斗り残し、よの旗は何も出すべきなり、
書き下し
跡の儀は四郎むすこ信勝十六歳の時家督なり、其間は陣代を四郎勝頼と申付候、但し武田の旗はもたする事無用なり、まして我そんしのはた·将軍地蔵の旗·八幡大菩薩の小旗、何も一せつ持すべからず、太郎信勝十六歳にて家督、初陣孫子の時尊師の旗斗り残し、よの旗は何も出すべきなり、
現代語訳
跡目のことは、四郎の息子である信勝が十六歳になった時に家督とする。そのあいだは陣代として四郎勝頼を申し付ける。ただし武田の旗を持たせることは無用である。まして我が尊崇の旗、将軍地蔵の旗、八幡大菩薩の小旗、いずれも一切持ってはならない。太郎信勝が十六歳で家督となり、初陣の時に孫子の旗だけを残して、他の旗はどれも出すべきである。
解説
家督を息子の勝頼ではなく孫の信勝に定め、勝頼はその陣代とした。しかも武田の旗を持たせないという但し書きが付く。旗は当主の証しであり、これを許さないということは、勝頼を正式の当主とは認めないという宣言になる。この一条が武田家のその後に重く効いた。旗を渡さないという一点が、その後の家中の求心力を左右した。名分の欠けは、器量では埋められないということである。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
家督後継旗陣代勝頼信勝
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