甲陽軍鑑 / 品第四十
又武道無案内の衆は五千·一萬人數もたぬうちの合戰は小合戰と申、それ大きなる僻事也、一萬·二萬よりての太將のなきは執々ひいき〳〵にて、上中下の手抦、上が下になり、下が上になり、其せんさく更にまことしからねば、是は何程多勢にても小合戰といふ者也、先分別して御覽せよ、尾州おけはさまにて十二年以前に、今川義元公二萬の勢を信長の千より內の人數にてかち義元を討とり給ふ、是人數すくなきとて小合戰とは申がたし、氏康公河越の夜軍も一萬より內八千なれ共大合戰と申、國郡もつ武士の主なしにて一ケ國或は二ヶ國をもうごかして仕る合戰は、たとへば二百·三百にても大合戰と是をいふ、
新字:又武道無案内の衆は五千·一万人数もたぬうちの合戦は小合戦と申、それ大きなる僻事也、一万·二万よりての太将のなきは執々ひいき〳〵にて、上中下の手抦、上が下になり、下が上になり、其せんさく更にまことしからねば、是は何程多勢にても小合戦といふ者也、先分別して御覧せよ、尾州おけはさまにて十二年以前に、今川義元公二万の勢を信長の千より内の人数にてかち義元を討とり給ふ、是人数すくなきとて小合戦とは申がたし、氏康公河越の夜軍も一万より内八千なれ共大合戦と申、国郡もつ武士の主なしにて一ケ国或は二ヶ国をもうごかして仕る合戦は、たとへば二百·三百にても大合戦と是をいふ、
書き下し
又武道無案内の衆は五千·一万人数もたぬうちの合戦は小合戦と申、それ大きなる僻事也、一万·二万よりての太将のなきは執々ひいき〳〵にて、上中下の手抦、上が下になり、下が上になり、其せんさく更にまことしからねば、是は何程多勢にても小合戦といふ者也、先分別して御覧せよ、尾州おけはさまにて十二年以前に、今川義元公二万の勢を信長の千より内の人数にてかち義元を討とり給ふ、是人数すくなきとて小合戦とは申がたし、氏康公河越の夜軍も一万より内八千なれ共大合戦と申、国郡もつ武士の主なしにて一ケ国或は二ヶ国をもうごかして仕る合戦は、たとへば二百·三百にても大合戦と是をいふ、
現代語訳
また武道に不案内な衆は、五千・一万の人数を持たないうちの合戦は小合戦と申す。それは大きな僻事である。一万・二万が寄っても大将のいないのは、それぞれの贔屓によって上中下の手柄が、上が下になり下が上になり、その詮索がまったくまことしからないので、これはどれほど多勢であっても小合戦というものである。まず分別してご覧ぜよ。尾州桶狭間で十二年前に、今川義元公二万の勢を信長の千より内の人数で勝ち、義元を討ち取られた。これは人数が少ないからといって小合戦とは申しがたい。氏康公の河越の夜軍も一万より内の八千であるけれども大合戦と申す。国郡を持つ武士の主がいなくて、一か国あるいは二か国をも動かしていたす合戦は、たとえば二百・三百であっても大合戦とこれを言う。
解説

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