甲陽軍鑑 / 品第十四
但し長尾輝虎、越中加賀の衆に負け給へど、何とて名高く云ふぞとおほしめすべし、それは輝虎のち又工夫ありて加賀と越中の大將なき我々もちの侍を、北條氏康·武田信玄などのやうに眞にあてごふてをくれをしる一揆には、みだりにあてがはんとて、輝虎家中をわれ意地ましにかゝらせ給ふ故、翌年の合戰はおほきに輝虎かち給ひ、加賀の尾山と云ふ所迄追討にし給ふ、是は大方ならぬ弓矢の上手にて、日本國中に末代迄も手本にならん、然れども下劣は武勇をもゑす歌に作りてうたふ其歌は、扨ても越後の輝虎樣は、關東面はおてらしあるげな、加賀の鑓にはおくもり有り候〓〓とうたふ、
新字:但し長尾輝虎、越中加賀の衆に負け給へど、何とて名高く云ふぞとおほしめすべし、それは輝虎のち又工夫ありて加賀と越中の大将なき我々もちの侍を、北条氏康·武田信玄などのやうに真にあてごふてをくれをしる一揆には、みだりにあてがはんとて、輝虎家中をわれ意地ましにかゝらせ給ふ故、翌年の合戦はおほきに輝虎かち給ひ、加賀の尾山と云ふ所迄追討にし給ふ、是は大方ならぬ弓矢の上手にて、日本国中に末代迄も手本にならん、然れども下劣は武勇をもゑす歌に作りてうたふ其歌は、扨ても越後の輝虎様は、関東面はおてらしあるげな、加賀の鑓にはおくもり有り候〓〓とうたふ、
書き下し
但し長尾輝虎、越中加賀の衆に負け給へど、何とて名高く云ふぞとおほしめすべし、それは輝虎のち又工夫ありて加賀と越中の大将なき我々もちの侍を、北条氏康·武田信玄などのやうに真にあてごふてをくれをしる一揆には、みだりにあてがはんとて、輝虎家中をわれ意地ましにかゝらせ給ふ故、翌年の合戦はおほきに輝虎かち給ひ、加賀の尾山と云ふ所迄追討にし給ふ、是は大方ならぬ弓矢の上手にて、日本国中に末代迄も手本にならん、然れども下劣は武勇をもゑす歌に作りてうたふ其歌は、扨ても越後の輝虎様は、関東面はおてらしあるげな、加賀の鑓にはおくもり有り候〓〓とうたふ、
現代語訳
ただし長尾輝虎は、越中・加賀の衆に負けられたのに、どうして名が高く言われるのかと思し召されるであろう。それは輝虎が後にまた工夫があって、加賀と越中の大将のいない自分たちの持ちの侍を、北条氏康や武田信玄などのように真剣に扱って後れを知る一揆には、みだりに扱おうとして、輝虎が家中を我こそと意地を増して掛からせられたゆえに、翌年の合戦は大きに輝虎が勝たれ、加賀の尾山という所まで追い討ちにされた。これは並々ならぬ弓矢の上手で、日本国中に末代までも手本になろう。けれども下賤の者は武勇をも押さえずに歌に作って歌う。その歌は、さても越後の輝虎様は、関東の面は照らしあるげな、加賀の鑓には曇りあり候、と歌うのである。
解説

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『甲陽軍鑑』品第十四さて又いづれの家にても勝利を失ひ給ふ大将をば、諸人誉めながら軽く存ずるぞ、まづ信州平賀成頼いかばかり覚への名大将と申したるげに候へども、武田廿六代目信虎公に討ちまけて討ち死すれば、其名は申し伝へず、越後長尾為景、越中のしかと大将なき我もちの侍どもにあふて討ち死なれば、子息輝虎の十分一も四方にて名をよばず、信州更科の村上殿浅からぬ覚への大将と申せども、武田廿七代目の信玄入道晴信公に討ち負けて、村上我持分をすて越後へ立退、我よりわかき輝虎を頼み給へば、これもつて諸人村上殿をほめず候、
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『甲陽軍鑑』品第十四又尾州織田信長は日本にて、上杉管領入道輝虎につゞきては、織田右大臣信長とて信玄公他界まし〳〵て後は、両大将を弓矢の花の本に申す中にも、信長は六年己来都の異見なれば、武辺のつよみなる塲数は、輝虎といへども結句信長と名をよぶ者多し、此信長をも下郎の歌に作りうたふ、一に憂事金ヶ崎、二にはうきこと志賀の陣、三に福島野田ののき、口〓〓と、
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『甲陽軍鑑』品第十二さて旗本組の諸勢手を砕いて敵を追ひちらし、人を打つもあり、くびを取りて我旦那を尋ね、小幡を目付け我備々へよるもあり、又敵は旗本組の備へ左へにくるはすくなし、右の方さい川の渡りを心懸けたる故、輝虎方の諸勢三ケ二に余り此筋をのく、うちはくれたる味方は皆此敵を追ふて行く、旗本に人少し、ある者は手負ひ或ひは勝負を仕くたびれたる所へ、敵の荒手、しかも千に余りたるそなへ来る、輝虎の後備へ甘数近江守と申事は後にこそ聞きつれ、其節は定めて輝虎にヒ ゴロとて有るべし、輝虎兼て信玄公と是非とも手と手を取合ひ、組度きと有る義を日来望み給ふ由連々取沙汰有れば、若し左様の義にて輝虎賢き武略を以て合戦の終る迄、跡に謙信は残る、只今乱たる時旗本へかゝるかと思召し、
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『甲陽軍鑑』品第三十九毛利元就中国を大形治め、四国·九国まで威をふるひ、元就におぢてしたはのように仕るといへども、信長を聞き及び四郎と云ふ子を信長へ奉公にやるべきと支度仕たると聞き、扨又長尾謙信輝虎は武勇をもつて日本へ名を発し、上杉管領に経あがり候処に、某信玄に負、すでに我等家の侍大将高坂弾正に申付、信玄馬の出てざるに、弾正ばかりをもつて越後の内へ度々はたらき候へば、越後より甲州の内へはたらくべき事は夢にも不存、此比は信州の内さへ然々と出たる事なし、其上越中において大将なき者共に相逢てをくれを取、敵におしつけをみせ、尤翌年に仕りかへし加賀の尾山までおし付たるとあれ共、先謙信も負たる事数度あり、
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『甲陽軍鑑』品第十三又時々境目へ氏康が出申は、御当家を殊の外怖奉て身がまへに罷出るを、各大事と存ぜらる近国にても、前に申甲斐の武田信虎などは、信濃の平賀成頼と一日に八度の合戦仕り、終に信虎かち候、武田が内にて横田備中·多田三八両人八度ながら鑓を入始たると承はる、又信州かつら尾の村上頼平も、越後長尾為景と日中に十一度の合戦をして、終に村上が勝利を得候、此時村上内にて丸田市右軽井沢衛門·石黒弥五之丞·かない原弾止是三人十一度ながら仕りすぐるゝ、箇様の合戦致す人は日本国中にも五かしらとは御座有るまじく候、小身なれども武田·村上などならば、自然何かと存することも有るべし、氏康のせがれに武略計策と有ること、甲·信両国に於て侍とも批判もいかゝに候、
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『甲陽軍鑑』品第十三近代我等式身にかけて多く候、敵味方なれども越後謙信は信玄をほむる、信玄家にては輝虎をそしらず、ましてそねむ事はなし、近き間のわか手なれども弓矢たけからんと思へば、家康も信玄をほむると聞く、本より信玄公も若手をやさしく思召し、輝虎におとらぬ弓取と家康を誉め給ふ、越後のさたは木熊城の意安、布施其外来りてかたる三河侍も多き中に、山形三郎兵衛同心に小崎三四郎かは山村伝兵衛一条殿にほり無手右術門·中根七右衛門·あさ見〓太夫是れ等は若手に利口者なりと当歳聞く、虚言なく三河のさたにも信玄公を誉め奉ると申し、