甲陽軍鑑 / 品第六
仕置の首尾不合光源院を討ち奉る故、公方家の諸侯三善家の侍と二つに破、以上五畿内三つになり、昨日味方と思へは今日は敵、就夫さすがの松永彈正も後勘やなかりけん、信長公を引出し己が敵を三ヶ年の間に大方成敗す、此砌り兩畠山病死す、
新字:仕置の首尾不合光源院を討ち奉る故、公方家の諸侯三善家の侍と二つに破、以上五畿内三つになり、昨日味方と思へは今日は敵、就夫さすがの松永弾正も後勘やなかりけん、信長公を引出し己が敵を三ヶ年の間に大方成敗す、此砌り両畠山病死す、
書き下し
仕置の首尾不合光源院を討ち奉る故、公方家の諸侯三善家の侍と二つに破、以上五畿内三つになり、昨日味方と思へは今日は敵、就夫さすがの松永弾正も後勘やなかりけん、信長公を引出し己が敵を三ヶ年の間に大方成敗す、此砌り両畠山病死す、
現代語訳
仕置きの首尾が合わず、光源院を討ち奉ったゆえに、公方家の諸侯と三好家の侍とが二つに破れ、以上、五畿内は三つになり、昨日の味方と思えば今日は敵。それにつき、さすがの松永弾正も後の勘考がなかったのか、信長公を引き出し、自分の敵を三か年の間に大方成敗する。この砌り、両畠山も病死する。
解説
家中の不和から公方を討つに至り、勢力が三つに割れた。松永は目の前の敵を片づけるために信長を引き入れる。手近な敵を消すために外の力を借りると、その外の力が残る。この一行が、次の段の自分の最期につながっていく。手近な敵を消すために外の力を借りると、その外の力が残る。この一行が、次の段の自分の最期にそのままつながっていく。
この章句が説くこと
内紛外力松永信長後先分裂
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