甲陽軍鑑 / 品第四十
一內藤修理正いはく昔し賴朝公譜代衆土佐正尊と申す侍、舍弟義經公の討手に都へのほる、忍びて罷在るを義經の近習に伊勢三郞義盛賢きはかりごとを以て方便て是をとひをとして我君に申す、義經聞召し、いそぎ正尊を召し寄せ旣に誅罰なさるゝ處に、正尊君の爲にいつはつて起請を書く故のがれがたき所をゆるされ申、此儀を贔負の町人正尊のはかりごと淺からずとほむる、
新字:一内藤修理正いはく昔し頼朝公譜代衆土佐正尊と申す侍、舎弟義経公の討手に都へのほる、忍びて罷在るを義経の近習に伊勢三郎義盛賢きはかりごとを以て方便て是をとひをとして我君に申す、義経聞召し、いそぎ正尊を召し寄せ旣に誅罰なさるゝ処に、正尊君の為にいつはつて起請を書く故のがれがたき所をゆるされ申、此儀を贔負の町人正尊のはかりごと浅からずとほむる、
書き下し
一内藤修理正いはく昔し頼朝公譜代衆土佐正尊と申す侍、舎弟義経公の討手に都へのほる、忍びて罷在るを義経の近習に伊勢三郎義盛賢きはかりごとを以て方便て是をとひをとして我君に申す、義経聞召し、いそぎ正尊を召し寄せ旣に誅罰なさるゝ処に、正尊君の為にいつはつて起請を書く故のがれがたき所をゆるされ申、此儀を贔負の町人正尊のはかりごと浅からずとほむる、
現代語訳
一、内藤修理正が言うには、昔、頼朝公の譜代衆に土佐正尊と申す侍がいた。舎弟の義経公の討手として都へ上る。忍びて罷りあるのを、義経の近習に伊勢三郎義盛が賢い謀をもって方便し、これを問い落として我が君に申す。義経が聞こし召し、急ぎ正尊を召し寄せ、すでに誅罰なさるところに、正尊は君のために偽って起請を書くゆえに、逃れがたい所を許され申す。この儀を、最負の町人は正尊の謀が浅からずと褒める。
解説
討手として潜んでいた正尊が、探り出されて誅罰されかけ、偽りの起請を書いて助かる。町人はその機転を褒める。褒められる話として置かれているが、この後で誰が誰を褒め、誰を謗るかが引っくり返される。褒められる話として置かれているが、この後で誰が誰を褒め、誰を謗るかが引っくり返される。町人が正尊の機転を褒めた、という前置きである。
この章句が説くこと
土佐正尊義経義盛起請偽り町人
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