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甲陽軍鑑 / 品第十一

此馬鹿大將の仕形は戯ても必ず心は大略剛成る者にて、我儘成る故に、我身を忘れ遊山見物·月見·花見朝夕奇物をもてあそぶことにすぎ、又は藝能を專らにし給ひ適武藝の弓兵法·馬鐵炮稽古あれ共、其心戲成る故、弓矢の道へはおとさず、藝者の樣に仕なし何れ宜しく我は國持ちたりと思給、弓矢の道無心懸にて、我することをば何れをも、能きことゝ斗り思ひ給ふによつて、

新字:此馬鹿大将の仕形は戯ても必ず心は大略剛成る者にて、我儘成る故に、我身を忘れ遊山見物·月見·花見朝夕奇物をもてあそぶことにすぎ、又は芸能を専らにし給ひ適武芸の弓兵法·馬鉄炮稽古あれ共、其心戯成る故、弓矢の道へはおとさず、芸者の様に仕なし何れ宜しく我は国持ちたりと思給、弓矢の道無心懸にて、我することをば何れをも、能きことゝ斗り思ひ給ふによつて、

書き下し

此馬鹿大将の仕形は戯ても必ず心は大略剛成る者にて、我儘成る故に、我身を忘れ遊山見物·月見·花見朝夕奇物をもてあそぶことにすぎ、又は芸能を専らにし給ひ適武芸の弓兵法·馬鉄炮稽古あれ共、其心戯成る故、弓矢の道へはおとさず、芸者の様に仕なし何れ宜しく我は国持ちたりと思給、弓矢の道無心懸にて、我することをば何れをも、能きことゝ斗り思ひ給ふによつて、

現代語訳

この馬鹿大将のありようは、戯けていても必ず心はおおむね剛強な者で、我儘であるゆえに、我が身を忘れて遊山・見物・月見・花見、朝夕に珍奇な物をもてあそぶことに過ぎ、あるいは芸能を専らにされる。たまたま武芸の弓や兵法、馬や鉄砲の稽古があっても、その心が戯けているゆえに弓矢の道へは落とし込まず、芸人のように仕立ててしまう。どれも結構だ、自分は国持ちだと思われて、弓矢の道に心がけがなく、自分のすることはどれも良いことだとばかり思われるので、その被官衆は、大将が得られたことも得られなかったことも、みな良いと褒めるのである。

解説

馬鹿なる大将の中身が具体で描かれる。臆病ではなく剛強で、しかも我儘というのが出発点。武芸をやらないのではなく、やっても芸事にしてしまうという指摘が鋭い。そして周りが、できたこともできなかったことも同じように褒めるようになる、というところで次の段につながる。できたことも、できなかったことも同じように褒められるようになる。その時点で、自分の腕前を測る手立てが本人の側から消えている。

この章句が説くこと

我儘弓矢大将

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