甲陽軍鑑 / 品第四十二
將棊頭人數立の事一高坂彈正篝ひきやくの事備へみの手なりの事七一旗本大陣取は原隼人あひてに被成信玄公御工夫なり、同五人組にして三万千五百と組あはせなさるゝ、縱へば卅七万五千迄もなるべき也、又大軍·小軍·大旗是れは馬塲美濃御挨拶人にて、是れも信玄公御工夫なり、此外も信玄公御工夫多けれ共、みな家老衆の分別とある上意は、
新字:将棋頭人数立の事一高坂弾正篝ひきやくの事備へみの手なりの事七一旗本大陣取は原隼人あひてに被成信玄公御工夫なり、同五人組にして三万千五百と組あはせなさるゝ、縦へば卅七万五千迄もなるべき也、又大軍·小軍·大旗是れは馬塲美濃御挨拶人にて、是れも信玄公御工夫なり、此外も信玄公御工夫多けれ共、みな家老衆の分別とある上意は、
書き下し
将棋頭人数立の事一高坂弾正篝ひきやくの事備へみの手なりの事七一旗本大陣取は原隼人あひてに被成信玄公御工夫なり、同五人組にして三万千五百と組あはせなさるゝ、縦へば卅七万五千迄もなるべき也、又大軍·小軍·大旗是れは馬塲美濃御挨拶人にて、是れも信玄公御工夫なり、此外も信玄公御工夫多けれ共、みな家老衆の分別とある上意は、
現代語訳
将棋頭の人数立ての事。一、高坂弾正、篝と飛脚の事、備えの蓑の手なりの事。一、旗本の大陣取りは原隼人を相手になされ、信玄公の御工夫である。同じく五人組にして三万千五百と組み合わせなさる。たとえば三十七万五千までにもなるはずである。また大軍・小軍・大旗、これは馬場美濃を御挨拶人にて、これも信玄公の御工夫である。この外にも信玄公の御工夫は多けれども、みな家老衆の分別であるとの上意であって、
解説
実際には信玄の工夫であるものまで、みな家老の分別ということにしてあった。手柄を家来の側へ回す言い方で、書き手はそれを御遠慮が多いと表現している。誰の考えかを譲ることが、人を育てる形になっている。誰の考えかを譲ることが、人を育てる形になっている。実際には自分の工夫であるものまで、みな家老の分別ということにしてあった。
この章句が説くこと
工夫手柄譲る家老上意育成
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