甲陽軍鑑 / 品第四十二
御遠慮おほくして如此○信玄公御旗一赤地に八幡大菩薩の旗二本一赤地に將軍地藏大菩薩の旗二本一武田二十七代迄之御旗一本一其疾如風一其靜如林一侵掠如火一不動如山是は黑地に金を以て此四ツの語を書給ふ、旗は四方也此旗共に以上六本なり、川中島合戰から此旗を被成、又味方が原にて家康信長に勝て、殊に信長と手ぎれ有りて東美濃發向の時、此語を右のはたにいれ給ふ一天上天下一唯我獨尊右之古事を入てはたの仕やうは一其疾如風一其靜如林一侵掠如火一不動如山一天上天下一唯我獨尊如此御旗は天正元年酉の三月もたせはじめられ、同四月十二日に御他界なり、此六本の御旗奉行一人、惣旗奉行一人それによりて二人也
新字:御遠慮おほくして如此○信玄公御旗一赤地に八幡大菩薩の旗二本一赤地に将軍地蔵大菩薩の旗二本一武田二十七代迄之御旗一本一其疾如風一其静如林一侵掠如火一不動如山是は黒地に金を以て此四ツの語を書給ふ、旗は四方也此旗共に以上六本なり、川中島合戦から此旗を被成、又味方が原にて家康信長に勝て、殊に信長と手ぎれ有りて東美濃発向の時、此語を右のはたにいれ給ふ一天上天下一唯我独尊右之古事を入てはたの仕やうは一其疾如風一其静如林一侵掠如火一不動如山一天上天下一唯我独尊如此御旗は天正元年酉の三月もたせはじめられ、同四月十二日に御他界なり、此六本の御旗奉行一人、惣旗奉行一人それによりて二人也
書き下し
御遠慮おほくして如此○信玄公御旗一赤地に八幡大菩薩の旗二本一赤地に将軍地蔵大菩薩の旗二本一武田二十七代迄之御旗一本一其疾如風一其静如林一侵掠如火一不動如山是は黒地に金を以て此四ツの語を書給ふ、旗は四方也此旗共に以上六本なり、川中島合戦から此旗を被成、又味方が原にて家康信長に勝て、殊に信長と手ぎれ有りて東美濃発向の時、此語を右のはたにいれ給ふ一天上天下一唯我独尊右之古事を入てはたの仕やうは一其疾如風一其静如林一侵掠如火一不動如山一天上天下一唯我独尊如此御旗は天正元年酉の三月もたせはじめられ、同四月十二日に御他界なり、此六本の御旗奉行一人、惣旗奉行一人それによりて二人也
現代語訳
ご遠慮が多くてこのとおりである。○信玄公の御旗。一、赤地に八幡大菩薩の旗二本。一、赤地に将軍地蔵大菩薩の旗二本。一、武田二十七代までの御旗一本。一、其疾如風。一、其靜如林。一、侵掠如火。一、不動如山。これは黒地に金でこの四つの語を書かれたもので、旗は四方である。この旗ともに以上六本である。川中島の合戦からこの旗をお用いになり、また三方ヶ原で家康・信長に勝って、とりわけ信長と手切れがあって東美濃へ発向した時、この語を右の旗に入れられた。一、天上天下。一、唯我独尊。右の古事を入れて旗の仕立て方は、其疾如風、其靜如林、侵掠如火、不動如山、天上天下、唯我独尊。このような御旗は天正元年酉の三月に持たせ始められ、同じ年の四月十二日にご他界である。この六本の御旗奉行が一人、惣旗奉行が一人、それによって二人である。
解説

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孫子・軍争篇故に兵は詐を以て立ち、利を以て動き、分合を以て変を為す者なり。故に其の疾きこと風の如く、其の徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如く、知り難きこと陰の如く、動くこと雷震の如し。郷を掠むれば衆を分かち、地を廓むれば利を分かち、権を懸けて動く。迂直の計を先知する者は勝つ。此れ軍争の法なり。
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『甲陽軍鑑』品第三十九信玄望みは、天下に旗をたつべきとの儀なれども、かやうに死する上は結句天下へのぼり仕置仕残し、汎々成時分に相果たるより只今しミて信玄存命ならば、都へのほり申べきものをと諸人批判は大慶也、就中弓箭の事、信長·家康果報のつよき者共と取合をはじめ候故、信玄一入はやく命縮と覚たり、
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『甲陽軍鑑』品第四十二しる如件雑人のいふ、よき事を吉凶に任せつくる也、信玄公のあひこと、関東越後·美濃·三河もろ〳〵の敵地にて後は存したるにより御他界の一両年前よりは敵かふくべなどこ作りて申候は、能信玄公御ほこさきつよくして、
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『甲陽軍鑑』品第四十二さるに付信玄公軍陣の役者におぼへなき人はあるまじきなり如件鑓奉行一信玄公十六歳より五十三迄の間に軍法工夫仕たる衆一荻原常陸守是は譜代衆也相図の小旗·相図の物見·がくのどう一原加賀守同方向の陣取一原美濃守足軽りうごのり、二のかけ備たこむ事一横田備中備組結ぶ事一多田淡路夜軍あつくうつて、うすく出る事、ひかへ時までいつさくなり一加藤駿河信玄公の弓矢の指南申たる武士なり一小幡山城楼西櫓に数の刻、敵の城へ取懸たる時出る出ざるを見合す事、敵の働き様にて味方にあやうき事見合儀一山本勘介城取或は敵をまはす事一米倉丹後守甲州人衆也城をせむるに竹たばの事一馬塲美濃守同押太鼓の九字を表する也、
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『甲陽軍鑑』品第十四惣別信玄公の合戦は働き前へに取りかけんと、思ふ国のゑづをもつて、各守侍大将打ち寄り、其国の嶮難の塲をさたして、一の手·二の手·横鎗·脇備·後備·小荷駄奉行所に依りてまほる旗遊軍·押勢などゝ申す事わり候ひて、卒爾にがけなどへころびおつる儀いづかたにても、さのみ無之、左様にいたすを甲州の軍法といふ、但しかり田などにゆき人夫の一二人は在々などにて、自然穴へおつることも有るべし、味方が原合戦の刻みがけへ落ちたる武田武者一人もなく候、家康武者もみだりに北たる衆なければ、結句馬塲美濃守は浜松衆の体皆勝負をして死する故、此方へ向きたると信玄公御前にて家康衆をあさからずほめ候、信長衆佐久間右衛門は合戦にあはず浜松の城に迯げ入り、其外六七手は其夜に吉田岡崎迄落ちつるときく、是れは味方が原の儀馬をいるゝと云ふに付ての事、
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『甲陽軍鑑』品第六信州伊奈四郎の御事也、信州諏訪頼茂の跡目なる故、武田相伝の信の字をさり給ふ、信玄公の御跡も十五年の間子息太郎竹王信勝廿一歳までの陣代と号してかり孫子の事なる故、武田の御旗は終にもたせ給はず、況んや信玄公尊崇の御幡もゆつらせ給はず、元伊奈におはします時の大文字の旗也、