甲陽軍鑑 / 品第四十七
其刻信玄彼白畑が訪をするは、それがしおさな心にも惜しく存知て如此、他所にてはいかんもあれ、信玄が家にては、にけてゆく者に追付ぬを比興とは申さぬなり、以來誰にても少しの成敗者にてあひ果て、それがしの用にたちてくれぬ人は死後迄殘おほし、一入おしう口惜く存するぞ、
新字:其刻信玄彼白畑が訪をするは、それがしおさな心にも惜しく存知て如此、他所にてはいかんもあれ、信玄が家にては、にけてゆく者に追付ぬを比興とは申さぬなり、以来誰にても少しの成敗者にてあひ果て、それがしの用にたちてくれぬ人は死後迄残おほし、一入おしう口惜く存するぞ、
書き下し
其刻信玄彼白畑が訪をするは、それがしおさな心にも惜しく存知て如此、他所にてはいかんもあれ、信玄が家にては、にけてゆく者に追付ぬを比興とは申さぬなり、以来誰にても少しの成敗者にてあひ果て、それがしの用にたちてくれぬ人は死後迄残おほし、一入おしう口惜く存するぞ、
現代語訳
その刻、信玄がかの白畑の弔いをするのは、それがしが幼な心にも惜しく存知てこのとおりである。他所にてはいかんもあれ、信玄が家にては、逃げてゆく者に追い付かぬのを比興とは申さぬのである。以来、誰にても少しの成敗者にて相果て、それがしの用に立ちてくれぬ人は死後まで残多し、一入惜しう口惜しく存ずるぞ。
解説
逃げる者を取り逃がしても臆病とは呼ばない、と定める。取り逃がすことより、つまらぬ成敗で人を失うほうが惜しいからである。武勇の看板を一つ下ろすことで、人を残そうとしている。武勇の看板を一つ下ろすことで、人を残そうとしている。取り逃がすことより、つまらぬ成敗で人を失うほうが惜しいという勘定である。何を恥とするかを、家のほうから決め直した定めになっている。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
比興追う成敗惜しむ信玄定め
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