甲陽軍鑑 / 品第四十
三枝勘解由左衞門又とふ扨是は武田の家風にて廿七代共に此通りかと云へば、內藤こたへて申す、尤代々せんさくありといへども、十が八ツは當屋形信玄公より一入せんさくつようして此通りなりと內藤修理物語りにて候なり、
新字:三枝勘解由左衛門又とふ扨是は武田の家風にて廿七代共に此通りかと云へば、内藤こたへて申す、尤代々せんさくありといへども、十が八ツは当屋形信玄公より一入せんさくつようして此通りなりと内藤修理物語りにて候なり、
書き下し
三枝勘解由左衛門又とふ扨是は武田の家風にて廿七代共に此通りかと云へば、内藤こたへて申す、尤代々せんさくありといへども、十が八ツは当屋形信玄公より一入せんさくつようして此通りなりと内藤修理物語りにて候なり、
現代語訳
三枝勘解由左衛門がまた問う。さてこれは武田の家風にて、二十七代ともにこのとおりかと言えば、内藤が答えて申す。もっとも代々詮索はあると言えども、十が八つは当屋形信玄公より一入詮索を強くして、このとおりであると、内藤修理の物語りにて候なり。
解説
この家風は二十七代続いてきたのかと問われて、代々あるにはあったが、八割は当代の信玄が詮索を強めたからだと答える。長く続いた家の作法に見えるものが、実は今の当主が作ったのだと明かしている。長く続いた家の作法に見えるものが、実は今の当主が作ったのだと明かしている。代々あるにはあったが、八割は当代の詮索によるという。
この章句が説くこと
家風詮索信玄代々内藤起源
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