甲陽軍鑑 / 品第十六
さて又件の諏訪彌左衞門·布施何れも最期よく仕るに付て、一入信玄公おしませ給ふ、殊に喧嘩の事は信玄公廿七歲天文十六年丁末の歲五十七ケ條の式目を定めて、御仕置きをなさる第十七ヶ條に書き給ひ、とかく喧嘩不仕樣にと思召し、長坂長閑·跡部大炊助·原隼人佐·駒井右京進右四人をめして仰せ出さるゝは、自今以後喧嘩の事理非によらず、双方成敗なりと相ふれ候へと宣まふ、
新字:さて又件の諏訪弥左衛門·布施何れも最期よく仕るに付て、一入信玄公おしませ給ふ、殊に喧嘩の事は信玄公廿七歳天文十六年丁末の歳五十七ケ条の式目を定めて、御仕置きをなさる第十七ヶ条に書き給ひ、とかく喧嘩不仕様にと思召し、長坂長閑·跡部大炊助·原隼人佐·駒井右京進右四人をめして仰せ出さるゝは、自今以後喧嘩の事理非によらず、双方成敗なりと相ふれ候へと宣まふ、
書き下し
さて又件の諏訪弥左衛門·布施何れも最期よく仕るに付て、一入信玄公おしませ給ふ、殊に喧嘩の事は信玄公廿七歳天文十六年丁末の歳五十七ケ条の式目を定めて、御仕置きをなさる第十七ヶ条に書き給ひ、とかく喧嘩不仕様にと思召し、長坂長閑·跡部大炊助·原隼人佐·駒井右京進右四人をめして仰せ出さるゝは、自今以後喧嘩の事理非によらず、双方成敗なりと相ふれ候へと宣まふ、
現代語訳
さてまた、くだんの諏訪弥左衛門も布施も、いずれも最期をよくしたことについて、ひとしお信玄公は惜しまれた。ことに喧嘩のことは、信玄公が二十七歳の天文十六年丁未の年に五十七か条の式目を定めて御仕置きをなされ、第十七か条に書かれて、とにかく喧嘩をしないようにと思し召し、長坂長閑・跡部大炊助・原隼人佐・駒井右京進の右四人を召して仰せ出されるには、今後の喧嘩のことは理非によらず双方成敗である、と触れよと宣われた。
解説
喧嘩両成敗の令が出される場面。すでに二十七歳の時の五十七か条にも定めがあったのに、なお徹底されないので改めて四人を呼んで触れさせようとする。双方が立派な最期を遂げたことを惜しんだ、という感情が出発点になっている。双方が立派な最期を遂げたことを惜しんだ、という感情が出発点になっている。すでに定めがあるのに徹底しない、という現実が背景にある。
この章句が説くこと
喧嘩両成敗法度五十七ヶ条理非信玄惜
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