甲陽軍鑑 / 品第十三
ある時兩人談合して己々が所領を澤山にとらんと思ひ、扇谷殿へ申けるは、御臺所入り是なくして事不辨にましますに、家老衆は江戶河越の國中に徘徊の儀、末の御代にはあの衆の子共扇谷御子孫へ敵對申、御子孫は公方のごとく成給ひ家老衆は兩上杉殿御仕合に少シもたがひ申まじ、御分別有べき由申上る處に扇谷殿武州江戶太田道灌を召寄殺し給ふ、是を聞て殘る上田·見田·荻谷を始め道灌が一類城主共のことは申に及ばず少しも身を持たる衆大形身がまへクチ〳〵をいたし居、
新字:ある時両人談合して己々が所領を沢山にとらんと思ひ、扇谷殿へ申けるは、御台所入り是なくして事不弁にましますに、家老衆は江戸河越の国中に徘徊の儀、末の御代にはあの衆の子共扇谷御子孫へ敵対申、御子孫は公方のごとく成給ひ家老衆は両上杉殿御仕合に少シもたがひ申まじ、御分別有べき由申上る処に扇谷殿武州江戸太田道灌を召寄殺し給ふ、是を聞て残る上田·見田·荻谷を始め道灌が一類城主共のことは申に及ばず少しも身を持たる衆大形身がまへクチ〳〵をいたし居、
書き下し
ある時両人談合して己々が所領を沢山にとらんと思ひ、扇谷殿へ申けるは、御台所入り是なくして事不弁にましますに、家老衆は江戸河越の国中に徘徊の儀、末の御代にはあの衆の子共扇谷御子孫へ敵対申、御子孫は公方のごとく成給ひ家老衆は両上杉殿御仕合に少シもたがひ申まじ、御分別有べき由申上る処に扇谷殿武州江戸太田道灌を召寄殺し給ふ、是を聞て残る上田·見田·荻谷を始め道灌が一類城主共のことは申に及ばず少しも身を持たる衆大形身がまへクチ〳〵をいたし居、
現代語訳
ある時、二人が談合して、自分たちの所領を沢山に取ろうと思い、扇谷殿へ申したことには、御台所へ入るものがなくて事が不弁でおられますのに、家老衆は江戸や川越の国中に徘徊しております。末の御代にはあの衆の子どもが扇谷の御子孫へ敵対を申し、御子孫は公方のようにおなりになり、家老衆は両上杉殿の御立場と少しも違い申すまい。ご分別あるべきだ、と申し上げるところに、扇谷殿は武州江戸の太田道灌を召し寄せて殺されたのである。これを聞いて、残る上田・見田・荻谷をはじめ、道灌の一類の城主どもはもちろん、少しでも身を持つ衆はおおかた身構えをして口々をいたし居り、館々へ引き籠もった。
解説
この章句が説くこと
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論語・憲問篇公伯寮、子路を季孫に愬う。子服景伯以て告げて曰く、「夫子固より公伯寮に惑志有り。吾が力猶お能く諸を市朝に肆さん。」子曰く、「道の将に行われんとするや、命なり。道の将に廃れんとするや、命なり。公伯寮其れ命を如何せん。」
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『甲陽軍鑑』品第四十七彼落合彥介が七十にあまる老母を、ほうこほつしが手にわたし籠のうちにて、せつしころされたるは名代のはぢにてはなきか、すでに其方をば信玄公御意に、曲淵にも年こそおとる共、武篇の事はおとる者にてはなきとの上意にて御座ありつるぞ、今ははや臆病者と仰出され候は、みな平三郎が御取成しあしき申なし故なり、我等親子いたし、よきやうに仕度存ずれ共、平三郎が其方ことざまに申上候へば何とも可然様無之候、如何やうなることにて其方は平三郎ににくまれ候や、貴殿事三法印へ対せられて定めて当年中は何事もこれあるまじきが、年あけばやがて大事なりとさま〳〵源五郎が申をしへ、
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論語・顔淵篇子張、明を問う。子曰く、「浸潤の譖、膚受の愬、行われざれば、明と謂う可きのみ。浸潤の譖、膚受の愬、行われざれば、遠しと謂う可きのみ。」
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『甲陽軍鑑』品第四十七長坂長閑·跡部大炊助申す、それはあの旁、信玄公御心をよく存ぜられずしてさやう也、あの曲淵ほどの者は旗本の事は申すに及ばず、甲州·信州·上州へかけては二千も三千もあらん、其上主又は寄親をさやうに悪口申す、頭の下知につかざるは大悪事なりとて、則ち長坂長閑·跡部大炊介御機嫌を見合せ、曲淵が板垣弥次郎へ雑言の次第申上る、信玄公聞し召しおほきにわらひ給ふ、
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『甲陽軍鑑』品第四十七金丸平三郎夜詰に罷出候を長坂長閑が子源五郎目付になり、落合彥介に八幡の前にてきらするなり、平三郎はいつも御城にふせられ候に付、用所有て屋形様戌の時の御看経の間に小者一人にて忍び宿へまいられ、夜の四ツ時に、何心もなく急ぎ御舘へ罷出るを源五郎よく存じ候てをしへ、平三郎二十一の歳落合彥介にきられたる事、長坂源五郎が讒言の故なりとは彼彥介申こしたるにてほどしれ候なり、