甲陽軍鑑 / 品第十四
卷第六强過たる大將之事長篠合戰の次第付信長公·家康公智謀深き事同味方原合戰物語之事第四番に强過たる大將は、心武く機はしりて大略は辨舌も明らかに物をいひ、智惠人にすぐれ何事につきてもよは見なることをきらひ給へど、しかも常には短氣なる事もなく、聊も喧狂におはしまさず、いかにも靜に奥深くみへ奉る故、家老の諫を申上るも何ぞ弱めなる事を言上して、機にたがひ申さんかと存るにつき、十ケ條の儀は五ツも漸々申せども心に機遣あるにつき、五ケ條の事も三ケ條は其理聞へかね候者なり、それによつて家老の物いふ事、皆戯言と思召、主の心を本としてわがまゝなる思案許有といへども、
新字:巻第六強過たる大将之事長篠合戦の次第付信長公·家康公智謀深き事同味方原合戦物語之事第四番に強過たる大将は、心武く機はしりて大略は弁舌も明らかに物をいひ、智恵人にすぐれ何事につきてもよは見なることをきらひ給へど、しかも常には短気なる事もなく、聊も喧狂におはしまさず、いかにも静に奥深くみへ奉る故、家老の諫を申上るも何ぞ弱めなる事を言上して、機にたがひ申さんかと存るにつき、十ケ条の儀は五ツも漸々申せども心に機遣あるにつき、五ケ条の事も三ケ条は其理聞へかね候者なり、それによつて家老の物いふ事、皆戯言と思召、主の心を本としてわがまゝなる思案許有といへども、
書き下し
巻第六强過たる大将之事長篠合戦の次第付信長公·家康公智謀深き事同味方原合戦物語之事第四番に强過たる大将は、心武く機はしりて大略は弁舌も明らかに物をいひ、智恵人にすぐれ何事につきてもよは見なることをきらひ給へど、しかも常には短気なる事もなく、聊も喧狂におはしまさず、いかにも静に奥深くみへ奉る故、家老の諫を申上るも何ぞ弱めなる事を言上して、機にたがひ申さんかと存るにつき、十ケ条の儀は五ツも漸々申せども心に機遣あるにつき、五ケ条の事も三ケ条は其理聞へかね候者なり、それによつて家老の物いふ事、皆戯言と思召、主の心を本としてわがまゝなる思案許有といへども、
現代語訳
巻第六、強過ぎたる大将のこと。長篠合戦の次第。付けたり、信長公・家康公の智謀が深きこと、ならびに三方ヶ原合戦物語のこと。第四番に強過ぎたる大将は、心が猛く気が走って、おおかたは弁舌も明らかに物を言い、智恵が人にすぐれ、何ごとについても弱く見えることを嫌われる。しかも常には短気なこともなく、いささかも荒れ狂うことなく、いかにも静かに奥深く見え奉るゆえに、家老が諫めを申し上げるのも、何か弱めなことを言上して機嫌に違い申すのではないかと思うので、十か条のことは五つもようやく申すけれども、心に気遣いがあるので、五か条のことも三か条はその理が聞き入れられないのである。それによって家老の物を言うことは、みな戯言と思し召し、主人の心を本として我儘な思案ばかりがある。
解説

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『晏子春秋』外篇上・景公問治國之患晏子,對以佞人讒夫在君側景公晏子に問うて曰く、「国を治むるの患い、亦常有るか」と。対えて曰く、「佞人讒夫の君が側に在る者、良臣を好悪して、行いを小人に与う。此れ国を治むるの常の患いなり」と。公曰く、「讒佞の人は、則ち誠に不善なり。然りと雖も、則ち奚ぞ曾ち国の常の患いと為さんや」と。晏子曰く、「君以て耳目と為して好んで事を謀らば、則ち是れ君の耳目繆れるなり。夫れ上は君の耳目を乱し、下は群臣をして皆其の職を失わしむ。豈に誠に患うるに足らざらんや」と。公曰く、「是くの如きか。寡人将に之を去らんとす」と。晏子曰く、「公は去ること能わざるなり」と。公忿然として色を作して説ばず、曰く、「夫子何ぞ寡人を少んずることの甚だしき」と。対えて曰く、「臣何ぞ敢えて撟らんや。夫れ能く自ら君に周き者は、才能皆常に非ず。夫れ大不誠を中に蔵する者は、必ず小誠を外に謹み、以て其の大不誠を成す。入りては則ち君の嗜欲を求めて能く之に順い、君良臣を怨めば、則ち其の往失を具えて之を益す。出でては則ち威を行いて以て富を取る。夫れ何ぞ密近にして、大利に変ぜられず、務めて君と義を至くする者は、此れ見難く且つ知り難きなり」と。公曰く、「然らば則ち先聖は奈何せん」と。
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言志四録・言志耋録 第二百五十二条 人臣も上情に通ずべし人君為る者は、宜しく下情に通ずべきこと、固よりなり。人臣為る者も、亦宜しく上情に通ずべし。不ずんば則ち諫諍的ならず。
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史記 淮陰侯列伝後九月、代の兵を破り、夏説を閼与に禽にす。信の魏を下し代を破るや、漢輒ち人をして其の精兵を収めしめ、滎陽に詣りて以て楚を距がしむ。信張耳と兵数万を以て、東のかた井陘を下りて趙を撃たんと欲す。趙王・成安君陳余漢の且に之を襲はんとするを聞き、兵を井陘口に聚め、二十万と号す。広武君李左車成安君に説きて曰く、「聞く漢将韓信西河を渉り、魏王を虜にし、夏説を禽にし、新たに閼与に喋血し、今乃ち輔くるに張耳を以てし、議して趙を下さんと欲すと。此れ勝に乗じて国を去ること遠く闘ふ。其の鋒当たるべからず。臣聞く、千里糧を餽れば、士に飢色有り、樵蘇して後に爨げば、師宿飽せずと。今井陘の道は、車方軌するを得ず、騎列を成すを得ず、行くこと数百里、其の勢ひ糧食必ず其の後に在り。願はくは足下臣に奇兵三万人を仮せ。間道より其の輜重を絶たん。足下は溝を深くし塁を高くし、営を堅くして与に戦ふ勿かれ。彼前むも闘ふを得ず、退くも還るを得ず、吾が奇兵其の後を絶ち、野をして掠むる所無からしめば、十日に至らずして、両将の頭戯下に致すべし。願はくは君臣の計に留意せよ。否ずんば、必ず二子の禽とする所と為らん」と。成安君は儒者なり。常に義兵は詐謀奇計を用ゐずと称し、曰く、「吾聞く兵法に十なれば則ち之を囲み、倍なれば則ち戦ふと。今韓信の兵数万と号するも、其の実は数千に過ぎず。能く千里にして我を襲ふも、亦已に罷極せり。今此くの如くして避けて撃たずんば、後に大なる者有らば、何を以て之に加へん。則ち諸侯吾を怯と謂ひて、軽んじて来りて我を伐たん」と。広武君の策を聴かず。広武君の策用ゐられず。韓信人をして間視せしめ、其の用ゐられざるを知りて還報すれば、則ち大いに喜び、乃ち敢へて兵を引きて遂に下る。未だ井陘口に至らざること三十里にして、止まりて舎す。
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『明君家訓』第1条(二)又は生質不肖に候間、加樣に申候てもわが身の惡事をつよく被諫候はゞ、不快の顏色見へ申儀も可有之候間、かさねて懲被申樣にいたしなし可申哉、其段は隨分嗜可申候、萬一其氣味見へ候共、一旦の儀にて、始終の心底は弓箭を以て唯今申通に候、惣じて某心底内外の儀に付、をのれが惡事を、人にかくし申儀無之候間、見及聞及被申所、何事によらず、機嫌をはからはず諫言をたのみ申候、たとひ、其事不愜候共、虚實は搆ひなく候、たとへば、遊興をこのみ候が、少にても自由の振舞候か、女色に耽候か、奧方に驕ありてか、おのれが威勢をつのり候か、才智にほこり候か、諫言を不用候か、賞罰不正候か、賢臣を遠け、佞臣を近け候か、文道に疎く候か、武備をわすれ候か、家臣百姓にいたるまで憐愍これなく候か、無用の器物を翫び候て金銀を費し候か、作事をこのみ候て人力をやぶり候か、加樣の儀自分に存寄分に候、此外にもおもひよられ候事有之候はゞ、對顏の節直になりとも、又は書付にて成共可被指越候、秘申度事に候はゞ封候て尤に候、取次の者少も延引候はゞ可爲不屆候、勿論一覽にも不及其儘可達之候、
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『配所残筆』配所殘筆(33)拙者儀者保科公へ不奉懸御目候間不奉存候由申上候得者。其方存寄はいかゝと被仰候故。不奉得尊意風聞迄にて。申上候事は必相違多御座候者に候間。難申上奉存候由申上候へ共。達而御尋被成候故私申上候は。風聞迄に而申上候はゞ。御學問之筋乍慮外私共存候とは御相違御座候樣に奉存候由申上候得者。被仰候には。此方も左樣に被思召候との御事に御座候。次に京都之所司代者誰を差候哉と被仰候故。拙者は不承候由申上候へば。石谷市右衞門殿永井伊賀守殿を指候由御申候。私申上候者。永井公者御年若に被成御座候旨申上候へば。被仰候者。年之老若には寄申間敷候。營量次第の事にて可有之由被仰候。次に世間如何樣に風聞候哉を御尋被成候間。私申上候者。世上之風聞一圓不承候。風聞者指而益も無御座御事かと申上候者。御歴々樣方にさへ賢人君子は少く御座候。然者下々には能者は大方無御座候。若能者御座候へ者。風聞など申候事も御座候間敷。有風聞者大方御大名衆へ御出入仕候輕町人風情世上に賢き者之申候事に御座候と申上候得ば。其世上に賢き者申候事にて能候由被仰候間。私申上候者。乍恐左樣の者不奉存候。世間にかしこき者は御時代之勢ひを能務申候間。上々樣の能々思召候者を能く申。御にくみ被成候者をば惡申候。少も委申候者をばさゝへ候而。我身之立候樣に取廻し候。人之事も能樣に申候而。實者そしり惡申候。如斯者の申候御事御許容被遊候御事は大事の儀に奉存候由申上候得者。古より堯舜も賤き者に事を尋られしと有之と被仰候故。私申上候者。
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『臣軌』卷上 匡諫章『新序』に曰く、「主暴にして諫めざるは、忠臣に非ざるなり。死を畏れて言わざるは、勇士に非ざるなり。過ちを見れば則ち諫め、用いられざれば即ち死するは、忠の至りなり。晋の平公、叔向に問いて曰く、『国家の患い孰れをか大と為す』と。対えて曰く、『大臣は禄を重んじて極諫せず、近臣は罪を畏れて敢えて言わず、下情は上に通ずるを得ず。此れ患いの大なる者なり』と。公曰く、『善し』と。乃ち令して曰く、『臣に善言を進めんと欲して謁する者有りて、謁者通ぜざれば、罪は死に至る』と」。『説苑』に曰く