甲陽軍鑑 / 品第四十
なかあしうして戰ありつれど、はや氏康公·信玄公他界まします、謙信公は此書物かき立始め申す四年目三月他界なり、其時分より高坂彈正も少つゝ相煩ひ候て罷有、輝虎公他界の年極月までもながらふまじきと存知、我等命のうちに是へかきのせ候間、
新字:なかあしうして戦ありつれど、はや氏康公·信玄公他界まします、謙信公は此書物かき立始め申す四年目三月他界なり、其時分より高坂弾正も少つゝ相煩ひ候て罷有、輝虎公他界の年極月までもながらふまじきと存知、我等命のうちに是へかきのせ候間、
書き下し
なかあしうして戦ありつれど、はや氏康公·信玄公他界まします、謙信公は此書物かき立始め申す四年目三月他界なり、其時分より高坂弾正も少つゝ相煩ひ候て罷有、輝虎公他界の年極月までもながらふまじきと存知、我等命のうちに是へかきのせ候間、
現代語訳
仲が悪くて戦がありましたけれども、早くも氏康公・信玄公はご他界である。謙信公はこの書物を書き立て始め申す四年目の三月に他界である。その時分から高坂弾正も少しずつ患い候ておりまして、輝虎公が他界の年の十二月までも長らえまいと存じて、我らの命のうちにこれへ書き載せ候あいだ、病中で事が続かなくても、首尾が合わないようには思われますな。
解説
書き手が自分の余命を勘定に入れて断りを書く。年内は保つまいと思うので、書き継ぎが途切れても筋が合わないとは思うなという。四人の大将が次々に死んでいく中で、記録する側も残り時間と競っていることが分かる。四人の大将が次々に死んでいく中で、記録する側も残り時間と競っていることが分かる。書き継ぎが途切れても筋を疑うな、という断りである。
この章句が説くこと
高坂病余命書置断り記録
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