甲陽軍鑑 / 品第三十九
或人の云ふ信玄公御歌に人は城人は石垣人は堀情は味方讎は敵なり敵の國へはたらき五十日に及び、味方の地へ人の通路もなくやき廻り、小田原まで押入、もどりに一戰をとげ、しかも勝利を得て候、
新字:或人の云ふ信玄公御歌に人は城人は石垣人は堀情は味方讎は敵なり敵の国へはたらき五十日に及び、味方の地へ人の通路もなくやき廻り、小田原まで押入、もどりに一戦をとげ、しかも勝利を得て候、
書き下し
或人の云ふ信玄公御歌に人は城人は石垣人は堀情は味方讎は敵なり敵の国へはたらき五十日に及び、味方の地へ人の通路もなくやき廻り、小田原まで押入、もどりに一戦をとげ、しかも勝利を得て候、
現代語訳
ある人が言うには、信玄公の御歌に、人は城、人は石垣、人は堀、情は味方、讎は敵なり、とある。敵の国へ働きかけること五十日に及び、味方の地へ人の通う道もなく焼き回り、小田原まで押し入り、戻りに一戦を遂げ、しかも勝利を得たのである。
解説
甲陽軍鑑でこの歌が現れるのはここ一箇所で、信玄が自分の生涯を数え上げている最中に、城を築かなかったという話の締めとして置かれている。城も石垣も堀も人で足りるという主張であり、直前に、甲州の内に城郭を構えず屋敷構えのままでいる、と述べたことの理由になっている。歌の後半にある讎は仇のことで、情けが味方を作り、恨みが敵を作るという意味になる。
この章句が説くこと
城人情讎守信玄
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