甲陽軍鑑 / 品第四十
右衞門本名は金丸なれ共、武田の老に信玄公なされ土屋右衛門尉と申候一土屋右衛門尉山縣三郞兵衛に云ふ、いつそや穴山殿·馬塲美濃殿にとひ給ふ、遠州濱松の德川家康うはさに付て馬塲美濃殿談儀に藝能はやく請取人利根者、座配よき人利發者、武邊仕さうなる人利口者と美濃殿おしへ給ふと聞く、扨て諸侍の中に利根にて利發にて、しかも利口なる人ありやと土屋申せば、山縣いはく、信玄公の御家には侍大將內藤修理正·あしがる大將橫出十郞兵衞是二人、此外侍大將の中に、若手には小山田彌三郞にてあり、就中河中島合戰の時、うち死なさるゝ古典厩樣など物ごとあひとゝのひたり、副將軍是也、と山縣三郞兵衞申され候、
新字:右衛門本名は金丸なれ共、武田の老に信玄公なされ土屋右衛門尉と申候一土屋右衛門尉山県三郎兵衛に云ふ、いつそや穴山殿·馬塲美濃殿にとひ給ふ、遠州浜松の徳川家康うはさに付て馬塲美濃殿談儀に芸能はやく請取人利根者、座配よき人利発者、武辺仕さうなる人利口者と美濃殿おしへ給ふと聞く、扨て諸侍の中に利根にて利発にて、しかも利口なる人ありやと土屋申せば、山県いはく、信玄公の御家には侍大将内藤修理正·あしがる大将横出十郎兵衛是二人、此外侍大将の中に、若手には小山田弥三郎にてあり、就中河中島合戦の時、うち死なさるゝ古典厩様など物ごとあひとゝのひたり、副将軍是也、と山県三郎兵衛申され候、
書き下し
右衛門本名は金丸なれ共、武田の老に信玄公なされ土屋右衛門尉と申候一土屋右衛門尉山県三郎兵衛に云ふ、いつそや穴山殿·馬塲美濃殿にとひ給ふ、遠州浜松の徳川家康うはさに付て馬塲美濃殿談儀に芸能はやく請取人利根者、座配よき人利発者、武辺仕さうなる人利口者と美濃殿おしへ給ふと聞く、扨て諸侍の中に利根にて利発にて、しかも利口なる人ありやと土屋申せば、山県いはく、信玄公の御家には侍大将内藤修理正·あしがる大将横出十郎兵衛是二人、此外侍大将の中に、若手には小山田弥三郎にてあり、就中河中島合戦の時、うち死なさるゝ古典厩様など物ごとあひとゝのひたり、副将軍是也、と山県三郎兵衛申され候、
現代語訳
右衛門の本名は金丸であるけれども、武田の宿老に信玄公がなされて土屋右衛門尉と申す。土屋右衛門尉が山県三郎兵衛に言う。いつぞや穴山殿が馬場美濃殿に問われた、遠州浜松の徳川家康の噂について、馬場美濃殿の談義に、芸能を早く受け取る人は利根者、座配のよい人は利発者、武辺の仕さうなる人は利口者と美濃殿が教えられたと聞く。さて諸侍の中に、利根であって利発であって、しかも利口な人はあるかと土屋が申せば、山県が言うには、信玄公の御家には侍大将の内藤修理正、足軽大将の横田十郎兵衛、この二人。このほか侍大将の中では、若手には小山田弥三郎である。とりわけ川中島合戦の時に討死なさった古典厩様などは物ごとが調っていた。副将軍とはこれである、と山県三郎兵衛が申された。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『甲陽軍鑑』品第四十一右五ヶ条の理なり一信玄公右の趣善悪のさた黒白のごとくわかり賞罰明らかなる事天のごとく地のごとくあそばし、よく法度をたて、よくさいはいを取て味方をいさめ、敵をおかし掠め給ふ事よろしき子細は、先関東の敵馬上の戦ひよくして馬を入乗きり、足軽上手なれば此敵には信玄公家老内藤修理又は小山田弥三郎をさしむけらるゝ、越後の謙信には高坂弾正に小幡山城入道をかいそへにさし添あてがひなさるゝ、三河武者家康衆は、こがへしよくする侍どもなりとて山県三郎兵衛をさしむけ給ふ、三郎兵衛こいくさをよくもつ仁なり、
-
『甲陽軍鑑』品第四十然れば三河の家康は人にすぐれて利根なる仁かとあれば、馬塲美濃守·穴山殿は信玄公御従弟しかも惣領むこにてましますが、憚りながらさやうの御詞を他国の家中にきこてわらひ候はんずるなり、抑も武士が武士をほむるに作法定まりたり、第一に謡·舞、或は物をよむにうけとりのはやき人を利根なると云ふ、其所作がら又は品のよき人を器用なると申、扨性発とも才智とも名づくなり、
-
『甲陽軍鑑』品第四十八信玄公広瀨郷左衛門·みしな肥前·こすげ五郎兵衛、此時代の物をば山県三郎兵衛家中によらず、御分国の諸家中にて老功のおほへある者には十双倍馳走まします仔細は、老功の者は信虎公への奉行半分、信玄公御代に半分わけ〳〵なるが、右三人時代の者はみな信玄公へばかりの忠節忠功の故念比し給ふ、味各別なり、かやうに有て大将の御徳おほし、さりながら又前代の者をも少も愚成様子は無御座者なり、前代の忠功と我取立の忠功とは、取立は先づ心安く、其上我時代の大将をば下々の侍も一入威光つよく申者なり、大小·上下共に武士はことば一ツにても其勝負まつたく、又あやうきこともあり、下として上をはからふ事なしとは申せども、
-
『甲陽軍鑑』品第四十大将には能々出頭人なり共、傍輩に物云ふやうにならねば殊に一ツ二ツにて、はやえつうあそばす事は国持の専ら也、一入信玄公十八歳よりそれがし廿五歳の時より奉公申奉るに、御わかき時分せんさくなされ、此儀をよそのやうに語給ひて定めらるゝ、今、曽根内匠·真田喜兵衛·三枝勘解由左衛門三人にケ様の定めを仰せきかされてこそ牢人衆の参るに右三人、先其侍を見とどけ、それ〳〵に披露いたすと大方みへまいらせ候と穴山殿に馬塲美濃守をしへまいらするなり、
-
『甲陽軍鑑』品第四十二明けくれ雑談を聞給ふ故なりと馬塲美濃高坂弾正に語る也信玄公軍法之御挨拶人一馬塲美濃軍の被成様申上る一山県三郎兵衛御働きなされてよきとすゝめ申上る一内藤修理何方へ御働きと指図申上る、其様子は北条家をかすめ給ふにも、伊豆か相摸か、はちかたか、関東にては新出·足利か、家康にては遠州か三河か信長東美濃か、扨は越後かと様子を積りて内藤申上る一高坂弾正者二ツなく敵国へふかく働き或は御一戦必ず御延引と計り申上、能く隠密するにより働きまへにしれず、但し侍大将衆は存候なり一文のいる事には小山田弥三郎をめして、七書·五経の古語をいはせて聞給ふ一何国先方衆にも疑ひ有るなしの御用心の事は土屋右衛門尉·三枝勘解由左衛門·真田喜兵衛·曽根内匠申上るに少しも私しなし一陣取、或は他国にて陣塲をみたつる事原隼人佐次第に被成候也一他国より御客来の挨拶、又は状文の取引は跡部大炊介·長坂長閑是の両人なり、
-
『甲陽軍鑑』品第四十右のごとく三河一国持て遠州まで手をかけたる家康を利根と云ふはおろかなり、利口とほむるもすべをしらぬ仰られ様にて候、家康の儀是は日本に若手の甚しき弓取と申者にて候ぞ、必らず穴山殿御心得なされよと馬塲美濃守申せば、穴山伊豆守殿あやまりて、そつじに問たるゆるし給へ馬塲美濃殿とて、其後どつとわらふて、たがひに座敷をたち給ふなり一土屋右衛門尉所へ山県三郎兵衛尉振舞に参らるこは、