甲陽軍鑑 / 品第四十
子細は伊豆の宗雲公今川殿へたより、後我手抦にて伊豆·相摸を取、濱松の家康是も今川殿へたより今如此、就中小身成る若者一二度はなしうちの科人をよく切、或は合戰せりあひ、足輕塲にて追頸の一ツ二ツをも、ふりよく取たるをば利口者と云ひさて又右の塲にて鎗をあはする人につゞき鎗下の高名をいたし、此兩人につどき鑓わきをつめて、ほまれ有人をば一度·二度·三度まではかひ〳〵しき人と云ふ、右の仕合かさなりて、四番めからは剛の兵とて是をおぼへの者と云ふ、おほへかさなり十度に餘るを塲數有て名高き侍をさして大剛の人と云ふ、其人に分別工夫あれば何と小身にても名人と名付る、
新字:子細は伊豆の宗雲公今川殿へたより、後我手抦にて伊豆·相摸を取、浜松の家康是も今川殿へたより今如此、就中小身成る若者一二度はなしうちの科人をよく切、或は合戦せりあひ、足軽塲にて追頸の一ツ二ツをも、ふりよく取たるをば利口者と云ひさて又右の塲にて鎗をあはする人につゞき鎗下の高名をいたし、此両人につどき鑓わきをつめて、ほまれ有人をば一度·二度·三度まではかひ〳〵しき人と云ふ、右の仕合かさなりて、四番めからは剛の兵とて是をおぼへの者と云ふ、おほへかさなり十度に余るを塲数有て名高き侍をさして大剛の人と云ふ、其人に分別工夫あれば何と小身にても名人と名付る、
書き下し
子細は伊豆の宗雲公今川殿へたより、後我手抦にて伊豆·相摸を取、浜松の家康是も今川殿へたより今如此、就中小身成る若者一二度はなしうちの科人をよく切、或は合戦せりあひ、足軽塲にて追頸の一ツ二ツをも、ふりよく取たるをば利口者と云ひさて又右の塲にて鎗をあはする人につゞき鎗下の高名をいたし、此両人につどき鑓わきをつめて、ほまれ有人をば一度·二度·三度まではかひ〳〵しき人と云ふ、右の仕合かさなりて、四番めからは剛の兵とて是をおぼへの者と云ふ、おほへかさなり十度に余るを塲数有て名高き侍をさして大剛の人と云ふ、其人に分別工夫あれば何と小身にても名人と名付る、
現代語訳
その子細は、伊豆の宗雲公は今川殿を頼り、後に我が手柄で伊豆・相模を取った。浜松の家康もこれも今川殿を頼って、今このとおりである。とりわけ小身である若者が、一、二度は話し討ちの科人をよく斬り、あるいは合戦や競り合い、足軽場で追い首の一つ二つをも飾って取ったのを利口者と言い、さてまた右の場で槍を合わせる人に続いて槍下の高名をいたし、この両人に続いて槍脇を詰めて誉れのある人を、一度・二度・三度まではかいがいしき人と言う。右の巡り合わせが重なって、四番めからは剛の兵といって、これを覚えの者と言う。覚えが重なって十度に余るのを、場数があって名高き侍を指して大剛の人と言う。その人に分別と工夫があれば、いかに小身であっても名人と名付ける。
解説
この章句が説くこと
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『甲陽軍鑑』品第四十是れは小身なる侍の事、大身の上には一のおほへ大合戦こぜりあひ、二のおぼへ城せめ、第一には人をよく見知、国の仕置見る事になさるゝ事、是は又国半国とも、もつ大将の御手抦是なり、然る間右の家康は十二年以前に十九歳にて尾州大高の覚へ、三河国一の宮の後詰、同かんだいじの合戦、吉良にての合戦、山中の平ぜめ信長すけ、江州あね川合戦偏へに家康武功故信長の勝利と云ふ、同若狭の国にて信長にすてられたる時の家康はたらき、遠州懸川にて今川氏真をせめて氏真に降参させ申事、其外三河国において七年に大方七度の合戦有りと聞く、
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『甲陽軍鑑』品第四十右のごとく三河一国持て遠州まで手をかけたる家康を利根と云ふはおろかなり、利口とほむるもすべをしらぬ仰られ様にて候、家康の儀是は日本に若手の甚しき弓取と申者にて候ぞ、必らず穴山殿御心得なされよと馬塲美濃守申せば、穴山伊豆守殿あやまりて、そつじに問たるゆるし給へ馬塲美濃殿とて、其後どつとわらふて、たがひに座敷をたち給ふなり一土屋右衛門尉所へ山県三郎兵衛尉振舞に参らるこは、
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『甲陽軍鑑』品第四十殊更おのこゞの武篇走廻る事老若によらず五百·千ある一備の中より二人·三人すぐれて、せり合の塲、或ひは城へ取よするにも、ふりのみごとにこたへたる侍は、一度にても剛の兵と名つげておぼへの人と申さん、子細は、せりあひに勝負なくしての儀、城へ取よするに、まきたる城をせめずしてまきほくすは、大将ひとりの下知故なれば小身なる各はからひにならず候、然る所に、のくにもかゝるにも五百·千にぬきいづる人は英雄と申して、むかしからほめたるげに候、
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『甲陽軍鑑』品第四十扨て家康は義元公討死より以降十年内外の国持ちなるが、駿河さかりの作法をおさなくて見きいたる儀ならん、信玄公の奉行衆公事さばく、様子に少し相似たるごとくなり、何にても公事の落着はめづらしき事きかね共、それは昨今の家康国持なる故、各々の感じ給ふことはまだ十年過ぎてもあるまじ、あの若き家康申付る三人の奉行に三様の形義をいひつけたるとみへて、仏かうりき·鬼作左·どちへんなしの天野三兵と浜松にて落書にたてたると聞く、
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『甲陽軍鑑』品第六三略にも義者不為不仁者死智者不為闇主謀云々、家康公も大方は此理にてもあらん、家康公十二歳の時菖蒲ぎりの勝負を見定め給ふ、心ざしの今に至るまで誉ありて、三河一国遠州半国の主と成り給ふ、又時のけんに属したる侍と譜代のわかちを長坂長閑老跡部大炊介殿能々被存知者也一毛利元就公おさなくおはせし時厳島へ社参あり、
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『甲陽軍鑑』品第四十就中其芸者は出来も不出来もなきやうに、其位ほどに仕るを功者と云ふ、又元来噐用にて其みち〳〵の学をよくして、いかにも会得の上、我工夫よければ心のつき所に志して、むかしの儀ふまへ所にいたし、其人ならひの後、学をもつて味を少しづこあたらしう分別して、出来も不出来もなきやうなるは、いつもよその出来たるほどあらん、さるに付て是は其道の上手とて此人を四方にあまねく、右の通りに沙汰するを名付て名人ともいふ儀なり、でき·ふできのあるは上手のうちにて、いまだいたらぬ心ならんかと宣ふなり、