甲陽軍鑑 / 品第四十
一關東の上杉管領花の制札に、此櫻花一枝も折取候はご、あたり八間流罪·死罪に仰付らるべき者也、仍て如件と立られたるなり、扨又信玄公甲府穴山小路、眞立寺と申す法花寺に、紅梅の甲斐一國の事は申に及ばず近國にもさのみ多くなし、さるに付右の眞立寺より花の制札を申請るに付、則禁制の札に、此花一枝一葉たりといふ共たをり取輩これあるにおいては、げんかう·かうやうの例にまかせて申付べき者也、件のごとしとあそばす、子細は、花といふ物はたゝ尋常のせいたう·らうせきにちがひ、花の主是をおしむは又こん春のため、折取は見ぬものゝため、いづれもやさしきなさけあるに、るざい·死罪はあまりなるとの義にて候、以上、
新字:一関東の上杉管領花の制札に、此桜花一枝も折取候はご、あたり八間流罪·死罪に仰付らるべき者也、仍て如件と立られたるなり、扨又信玄公甲府穴山小路、真立寺と申す法花寺に、紅梅の甲斐一国の事は申に及ばず近国にもさのみ多くなし、さるに付右の真立寺より花の制札を申請るに付、則禁制の札に、此花一枝一葉たりといふ共たをり取輩これあるにおいては、げんかう·かうやうの例にまかせて申付べき者也、件のごとしとあそばす、子細は、花といふ物はたゝ尋常のせいたう·らうせきにちがひ、花の主是をおしむは又こん春のため、折取は見ぬものゝため、いづれもやさしきなさけあるに、るざい·死罪はあまりなるとの義にて候、以上、
書き下し
一関東の上杉管領花の制札に、此桜花一枝も折取候はご、あたり八間流罪·死罪に仰付らるべき者也、仍て如件と立られたるなり、扨又信玄公甲府穴山小路、真立寺と申す法花寺に、紅梅の甲斐一国の事は申に及ばず近国にもさのみ多くなし、さるに付右の真立寺より花の制札を申請るに付、則禁制の札に、此花一枝一葉たりといふ共たをり取輩これあるにおいては、げんかう·かうやうの例にまかせて申付べき者也、件のごとしとあそばす、子細は、花といふ物はたゝ尋常のせいたう·らうせきにちがひ、花の主是をおしむは又こん春のため、折取は見ぬものゝため、いづれもやさしきなさけあるに、るざい·死罪はあまりなるとの義にて候、以上、
現代語訳
関東の上杉管領の花の制札に、この桜の花を一枝でも折り取ったならば、あたり八間を流罪・死罪に仰せ付けられるべき者である、よって件のごとし、と立てられたのである。さてまた信玄公は、甲府の穴山小路に真立寺という法華寺があり、その紅梅は甲斐一国の事は申すに及ばず近国にもそれほど多くない。それにつけて、その真立寺から花の制札を申し請けるについて、すなわち禁制の札に、この花を一枝一葉といっても手折り取る輩がこれあるにおいては、元弘・康永の例に任せて申し付けるべき者である、件のごとし、と遊ばす。子細は、花というものはただ尋常の政道や狼藉とは違い、花の主がこれを惜しむのはまた来る春のため、折り取るのは見ない者のため、いずれも優しい情けがあるのに、流罪・死罪はあまりであるという事でございます。以上。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『甲陽軍鑑』品第四十一或る時信玄公宣ふ、国持大将人をつかふに、ひとむきの侍をすき候て、其崇敬する者共おなじ行義作法の人ばかり念比して、めしつかふこと信玄は大に嫌たり、子細は先、大身·小身共に然るべき侍は作法にて庭に四本がゝりを仕る、就中春は桜の色めき柳は綠とくすむ、春過て両木の争そひおはる、とかくと夏を送り秋になれば、ちらんとかなしむ、かえでが紅葉して、暮煙秋雨に経ると吟ぜらるゝ事、様々の仕形ありといへども、冬にいたりては是又一ツもなし、去る程に常住かはらぬ松の色、今こそすがたをあらはすなれ、
-
『甲陽軍鑑』品第十六さて又件の諏訪弥左衛門·布施何れも最期よく仕るに付て、一入信玄公おしませ給ふ、殊に喧嘩の事は信玄公廿七歳天文十六年丁末の歳五十七ケ条の式目を定めて、御仕置きをなさる第十七ヶ条に書き給ひ、とかく喧嘩不仕様にと思召し、長坂長閑·跡部大炊助·原隼人佐·駒井右京進右四人をめして仰せ出さるゝは、自今以後喧嘩の事理非によらず、双方成敗なりと相ふれ候へと宣まふ、
-
『甲陽軍鑑』品第四十一関東の管領上杉則政公の取立て大身になさるゝ人をば、十人の内八人·九人を諸傍輩次第にすへ程あしう取さた申つると聞、扨信玄公御取立の人をは前々十分によきさたなき人をも次第に各讃申候、又其人なにぞ一かど仕得たる事ありて、近国·他国にもほむるとある、則政公の御分別と信玄公のあそばしやう、此様子仰られきかせ給へと高坂弾正に真田喜兵衛いへば、
-
『甲陽軍鑑』品第四十七上下の批判に、曲淵をまねて手がらもなき者は中々いはんとも思ふまじ、又功もなくしていふならば、よその気まうもはづかしかるべし、心有るほどの人は手抦なくしてはいはんとも、おもはずいふてもおかしき事也と、諸人取りさたは信玄公御ことばに心の付らるゝ御意の故なり、
-
『甲陽軍鑑』品第四十八さりながら、いやしくも仏体をまぬる出家に證拠もなき事にそこつになはをかくる事、私しにては勿体なし、扨また彼百姓狼籍なりとて頸を切りなば、相手出家成ゆへ其慈悲かくる間此百姓百日籠舎成、彼野人の女房は此男にそわんも離別も女人次第夫は申に及ばず又此出家いかにも片方に住、無学の僧にても得経に背くは曲事たり、され共右百姓の申儀證拠なければ是罪科にも成がたし、経文相違の事計也、経文相違の出家を其儘をかばいかゞなり、経に背かざる様に心ざし、他国へまいり出家を立べし、我分国をはらへとて、青沼介兵衛·市川宮内ノ助、両人に被仰付その遠国をたゞし、
-
『甲陽軍鑑』品第四十其ごとくある世間の体をもちがへ、ひとむき一ツかたぎをこのむは、かならず国持の非儀ならん、但しよき大将の上には一ツやうなるも、ほめてこそあるらめ、或は三四七ツともいはんと信玄公御諚あり、