甲陽軍鑑 / 品第四十七
又承及候、織田上總守信長公子息城介信忠の事を御前の衆に尋られければ、內藤申され候は一段御噐用なるよし、上下共にとりさたいたすと申候へば信長聞召し、噐用の樣子は如何と重ねて尋給へば、各申は御客來など有之に、此人には御馬を可被下候と各存候には、必ず御馬を下され候、御腰物をつかわさるべく候と申には少もたがはず御腰物を下給ふと申候へば信長大きに怒りて、何としてさやうなるが噐用にて有べきぞ、それは無噐用者にて、中々我等が跡はなるまじきと申され候子細は、
新字:又承及候、織田上総守信長公子息城介信忠の事を御前の衆に尋られければ、内藤申され候は一段御噐用なるよし、上下共にとりさたいたすと申候へば信長聞召し、噐用の様子は如何と重ねて尋給へば、各申は御客来など有之に、此人には御馬を可被下候と各存候には、必ず御馬を下され候、御腰物をつかわさるべく候と申には少もたがはず御腰物を下給ふと申候へば信長大きに怒りて、何としてさやうなるが噐用にて有べきぞ、それは無噐用者にて、中々我等が跡はなるまじきと申され候子細は、
書き下し
又承及候、織田上総守信長公子息城介信忠の事を御前の衆に尋られければ、内藤申され候は一段御噐用なるよし、上下共にとりさたいたすと申候へば信長聞召し、噐用の様子は如何と重ねて尋給へば、各申は御客来など有之に、此人には御馬を可被下候と各存候には、必ず御馬を下され候、御腰物をつかわさるべく候と申には少もたがはず御腰物を下給ふと申候へば信長大きに怒りて、何としてさやうなるが噐用にて有べきぞ、それは無噐用者にて、中々我等が跡はなるまじきと申され候子細は、
現代語訳
また承り及び候。織田上総守信長公が、子息の城介信忠の事を御前の衆に尋ねられければ、内藤が申され候は、一段御器用なるよし、上下ともに取り沙汰いたすと申し候えば、信長が聞こし召し、器用の様子はいかにと重ねて尋ね給えば、方々が申すは、御客来などこれあるに、この人には御馬を下さるべく候と方々が存じ候には、必ず御馬を下され候。御腰物を遣わさるべく候と申すには、少しも違わず御腰物を下し給うと申し候えば、信長が大きに怒りて、何としてさようなるが器用にてあるべきぞ。それは無器用者にて、なかなか我らが跡はなるまじきと申され候。子細は、下よりの積もりの外。
解説
この章句が説くこと
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『甲陽軍鑑』品第四十信長の仕置今はまづあやうし、子細は内の衆に大国をくれて国主に各を仕らるゝ、其中に名人のなき事は有るまじ、さありて明日にも信長病死ならば、子息城介殿二代の大身なる故、何としてもよろづこまかに有るまじ、又仕出での侍は何事もめいさいなれば、本からの大身と仕出での大身とくらぶれば、一ツ時代には仕出での方かつ物にて候、さなくして信長仕置さへよくば嫡子城介信忠も舎弟伊勢国司に定めらるゝ三助も、殊の外能くむまれつきたる大将ときこへ候間少しも子細なく、信長死後にもおさまり候はんと高坂弾正が真田安房守にいひをしゆるなり、
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『甲陽軍鑑』品第四十子細は織田信長行義あらしと雖、人の目利上手にて、池田·柴田·滝川·木下·丹羽·河尻·佐久間などと云ふ者共、武辺なければ分別すぐれ、いづれも少身なる衆を目利有、取たて一廉の侍と近国·他国へ名をよばする、信長扇·鼻紙をばわすれて刀·脇指を忘ぬ心なり、
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『甲陽軍鑑』品第四十七惣別噐用だてをする者は無噐用の真只中、分別だてをする者は無分別の九ツ時分にて候ぞ、武士は手の外を仕り、下よりつもられぬが本の大将也と申されたるよし聞及て候、信長公あらぎなる大将のやうに申なし候へ共、右の段は聞事なることなり、
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『甲陽軍鑑』品第六着語して云入レ凡入聖一織田信長公十三の御年寺へ上り給へども、中々手をばならはずして、万ふるまひあしく、手習朋友共食物すればうばひ取て食しなどして、種々恥辱なる事不可勝計しかあれば寺の法印も、もてあつかひかたへの人も之を見て物の用に立べからす弾正忠の子にては有まじきなどゝ申しあへり、
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『甲陽軍鑑』品第四十今信玄の仕置城介殿·三助殿信長に相似て如形の若き衆たちにても信長死後にはあぶなし、と高坂弾正が真田安房守にをしへて信長公の御うはさを申いたし候、
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『甲陽軍鑑』品第四十七下よりつもりの外、刀をくれべきと申には、小袖をくれ馬をとらすべき者と人々申には、代物を一貫ばかりとらせ、此人にはふるき物は下さるまじきと取さた候へば、其者には金子などを沢山にとらせたるこそ手の外の様子にて、それが国持大将の作法なり、縦へば敵へ取かくるに城ノ介こそ是へいづると申所へは少も出ずして敵に骨をおらせ、又いづまじきと敵の思ふ所へは如何にもかるく出てこそ利はなる物なれ、まちかまへてるたる所へ出ては何として利がなるべきぞ、