甲陽軍鑑 / 品第四十一
前の極月遠州味方が津原において家康へ加勢の信長衆に、村井·佐久間·平手·水野·澤田などゝ云ふ侍大將共きたつて、ひとはもあはす敗北する、殊更瀧川丹波ト全などゝ云ふ侍大將は都合十三頭來て、今ぎれのわたりより引かへし、悉くにげたりと聞、それ故立むかふ事ならずといへども、信玄公は遠慮をふかくあそばし信長大敵の故、功者の馬塲美濃守を指むけなさるゝ、但し岩村の城に秋山伯耆守をさし置給ふ故、先信長押は秋山伯耆守なり、
新字:前の極月遠州味方が津原において家康へ加勢の信長衆に、村井·佐久間·平手·水野·沢田などゝ云ふ侍大将共きたつて、ひとはもあはす敗北する、殊更滝川丹波ト全などゝ云ふ侍大将は都合十三頭来て、今ぎれのわたりより引かへし、悉くにげたりと聞、それ故立むかふ事ならずといへども、信玄公は遠慮をふかくあそばし信長大敵の故、功者の馬塲美濃守を指むけなさるゝ、但し岩村の城に秋山伯耆守をさし置給ふ故、先信長押は秋山伯耆守なり、
書き下し
前の極月遠州味方が津原において家康へ加勢の信長衆に、村井·佐久間·平手·水野·沢田などゝ云ふ侍大将共きたつて、ひとはもあはす敗北する、殊更滝川丹波ト全などゝ云ふ侍大将は都合十三頭来て、今ぎれのわたりより引かへし、悉くにげたりと聞、それ故立むかふ事ならずといへども、信玄公は遠慮をふかくあそばし信長大敵の故、功者の馬塲美濃守を指むけなさるゝ、但し岩村の城に秋山伯耆守をさし置給ふ故、先信長押は秋山伯耆守なり、
現代語訳
前の極月、遠州味方が原において家康へ加勢の信長衆に、村井・佐久間・平手・水野・沢田などという侍大将どもが来たって、一支えも合わさず敗北する。殊更、滝川丹波・卜全などという侍大将は都合十三頭が来て、今切の渡りより引き返し、ことごとく逃げたと聞く。それゆえ立ち向かう事はならずといえども、信玄公は遠慮を深くあそばし、信長は大敵であるゆえに、功者の馬場美濃守を差し向けなさる。ただし岩村の城に秋山伯耆守を差し置き給うゆえに、まず信長押さえは秋山伯耆守である。
解説

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『甲陽軍鑑』品第三十九去年味方が原の砌も、信長·家康申合、十四ケ国に取つゝきたる所へおしかけ、二三里近くの二俣をせめ取、其上合戦にかち、遠州·三州の間刑部に極月廿四日より正月七日迄十四日の間罷在に、天下のぬし信長様々降参のうへ、我等被官秋山伯耆守を信長をばむこにして、それにことよせ末子の御坊と云ふ子を甲府迄差越候に、信玄方より破りて信長居城の六里近く迄やき詰、一万余の人数にて信長出たるに、馬塲美濃守千にたらぬ備をもつて、上道一里あまりおしつけ候へば、跡もみず岐阜へにげこみて、岩村の城を此方へせめをとすさて信玄武勇の事は人をたよらず、只今にいたりても氏政加勢に可罷出と被申候へ共、無用と申候、武篇の手抦は如此也、
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『甲陽軍鑑』品第四十一岐阜の信長は未だ手あひしかとみへざる子細は、申の極月信長とは御無事きれて、酉の三月中旬にはじめて信長持の国東美濃へ取懸、岩村の城を信玄公御先衆に四郎殿·典厩·穴山三人を警固としてせめ給ふ時、信長一万ばかりの人数にて大物見に出る、馬塲美濃守八百の備へにてかこるを見て、岩村の落城にもかまはず信長早々引入て、岩村きりが城を信玄公へ取給ふ其右十日の間に東美濃かんの大寺まで信玄公御手に入候といへども信長終に出あはず候事、
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『甲陽軍鑑』品第四十今明年の間に右の家康と一戦なうてかなふまじ、さあるに付ては信長も後をかんがへ、今こそ当家と縁辺の無事なり共、家康へ信長加勢あらば両家を相手になされ、信玄公合戦をとげられ、都までほまれのためなれば、是には猶以て軍法のいる所なりと穴山殿に馬塲美濃守申きかす也穴山伊豆守殿馬塲美濃守に又とはるゝ、
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『甲陽軍鑑』品第十四惣別信玄公の合戦は働き前へに取りかけんと、思ふ国のゑづをもつて、各守侍大将打ち寄り、其国の嶮難の塲をさたして、一の手·二の手·横鎗·脇備·後備·小荷駄奉行所に依りてまほる旗遊軍·押勢などゝ申す事わり候ひて、卒爾にがけなどへころびおつる儀いづかたにても、さのみ無之、左様にいたすを甲州の軍法といふ、但しかり田などにゆき人夫の一二人は在々などにて、自然穴へおつることも有るべし、味方が原合戦の刻みがけへ落ちたる武田武者一人もなく候、家康武者もみだりに北たる衆なければ、結句馬塲美濃守は浜松衆の体皆勝負をして死する故、此方へ向きたると信玄公御前にて家康衆をあさからずほめ候、信長衆佐久間右衛門は合戦にあはず浜松の城に迯げ入り、其外六七手は其夜に吉田岡崎迄落ちつるときく、是れは味方が原の儀馬をいるゝと云ふに付ての事、
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『甲陽軍鑑』品第十四又馬塲美濃申すは、さらば城を責め落とし掃地をいたし城に屋形を置キ奉りて逍遥軒公を始め御親類衆を悉くうしろに陣をとらせ申シ、惣人数は御旗本の先きそへにして、山県と内藤と拙者と三頭川を越し時々のせりあひをして長陣をはるに付きては、みかたは信州より人夫の運送近し、敵は河内和泉の人数もあれば、長陣ならずして終には信長ひき申すべしとある所に、長坂長閑申すは、それは馬塲美濃あしき分別なり、信長はどの大将がたど引き候はんや、をしかけて軍をする時は如何と長閑いへば、馬塲美濃申さるゝ、そこにては合戦をなされで叶はぬ事と云ふ、長閑申すは、あなたにしかけられて合戦なされんも、此方よりすゝみ給はんも、ひとつ道理にて候と申上れば、
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『甲陽軍鑑』品第四十一或る時穴山殿馬塲美濃にとはるこ、旣に織田信長今天下を意見する程ならば、聞及て人の手本に仕るへき軍法一ツもなき事是如何とあれば、馬塲美濃こたへていはく、信長の敵は美濃衆に七年手間取斗り残りはみな信長におづる人々なる故軍法もいらず候、其上信玄公輝虎と大かた世間に有程の手だて·はかりこと被成に付、他国の弓矢を当御家にて、さのみおもしろふ存せず候、殊更信長も当年三十八歳、天下も三吉殿をおしのけ、都の義誠に我意見仕らるゝは去年七月からの事なり、軍法も大敵·强敵に逢ての行にて候へば、