甲陽軍鑑 / 品第四十七
其後信玄公仰出さるゝは、信虎公の代わが十三のとし、白畑助之丞といふ者は信虎の侍一百二十人の中より、手抦の塲數ある者を七十五人すぐり、又其中より三十三人すぐりて、身をはなさずめしつれらるゝ、其內に右の白畑といふ者、ぬしがかせものを折檻仕り、今度の金ノ助がごとく追て行く、彼かせもの白畑が刀のうしろへさはるほどにて、刀をぬきながら返して、ひざまついてかた手うちにはらふ、白畑が兩腕をそへ頸共に一刀にて白畑助之丞被官にきりころさるゝ、
新字:其後信玄公仰出さるゝは、信虎公の代わが十三のとし、白畑助之丞といふ者は信虎の侍一百二十人の中より、手抦の塲数ある者を七十五人すぐり、又其中より三十三人すぐりて、身をはなさずめしつれらるゝ、其内に右の白畑といふ者、ぬしがかせものを折檻仕り、今度の金ノ助がごとく追て行く、彼かせもの白畑が刀のうしろへさはるほどにて、刀をぬきながら返して、ひざまついてかた手うちにはらふ、白畑が両腕をそへ頸共に一刀にて白畑助之丞被官にきりころさるゝ、
書き下し
其後信玄公仰出さるゝは、信虎公の代わが十三のとし、白畑助之丞といふ者は信虎の侍一百二十人の中より、手抦の塲数ある者を七十五人すぐり、又其中より三十三人すぐりて、身をはなさずめしつれらるゝ、其内に右の白畑といふ者、ぬしがかせものを折檻仕り、今度の金ノ助がごとく追て行く、彼かせもの白畑が刀のうしろへさはるほどにて、刀をぬきながら返して、ひざまついてかた手うちにはらふ、白畑が両腕をそへ頸共に一刀にて白畑助之丞被官にきりころさるゝ、
現代語訳
その後、信玄公が仰せ出だされるは、信虎公の代、我が十三の年。白畑助之丞という者は、信虎の侍百二十人の中より手柄の場数ある者を七十五人すぐり、またその中より三十三人すぐって、身を離さず召し連れられる。その内に右の白畑という者が、主が加勢者を折檻いたし、今度の金ノ助のごとく追うてゆく。かの加勢者は、白畑の刀が後ろへ触れるほどにて、刀を抜きながら返し、膝まづいて片手打ちに払う。白畑は両腕を添え、首ともに一刀にて、白畑助之丞は被官に斬り殺さるる。
解説

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