甲陽軍鑑 / 品第四十
一或る時穴山殿馬塲美濃にとはるこ、旣に織田信長今天下を意見する程ならば、聞及て人の手本に仕るへき軍法一ツもなき事是如何とあれば、馬塲美濃こたへていはく、信長の敵は美濃衆に七年手間取斗り殘りはみな信長におづる人々なる故軍法もいらず候、其上信玄公輝虎と大かた世間に有程の手だて·はかりこと被成に付、他國の弓矢を當御家にて、さのみおもしろふ存せず候、殊更信長も當年三十八歲、天下も三吉殿をおしのけ、都の義誠に我意見仕らるゝは去年七月からの事なり、軍法も大敵·强敵に逢ての行にて候へば、
新字:一或る時穴山殿馬塲美濃にとはるこ、旣に織田信長今天下を意見する程ならば、聞及て人の手本に仕るへき軍法一ツもなき事是如何とあれば、馬塲美濃こたへていはく、信長の敵は美濃衆に七年手間取斗り残りはみな信長におづる人々なる故軍法もいらず候、其上信玄公輝虎と大かた世間に有程の手だて·はかりこと被成に付、他国の弓矢を当御家にて、さのみおもしろふ存せず候、殊更信長も当年三十八歳、天下も三吉殿をおしのけ、都の義誠に我意見仕らるゝは去年七月からの事なり、軍法も大敵·强敵に逢ての行にて候へば、
書き下し
一或る時穴山殿馬塲美濃にとはるこ、旣に織田信長今天下を意見する程ならば、聞及て人の手本に仕るへき軍法一ツもなき事是如何とあれば、馬塲美濃こたへていはく、信長の敵は美濃衆に七年手間取斗り残りはみな信長におづる人々なる故軍法もいらず候、其上信玄公輝虎と大かた世間に有程の手だて·はかりこと被成に付、他国の弓矢を当御家にて、さのみおもしろふ存せず候、殊更信長も当年三十八歳、天下も三吉殿をおしのけ、都の義誠に我意見仕らるゝは去年七月からの事なり、軍法も大敵·强敵に逢ての行にて候へば、
現代語訳
ある時、穴山殿が馬場美濃に問われる。すでに織田信長が今、天下を意見するほどであるならば、聞き及んで人の手本にすべき軍法が一つもない事、これはどうしたことかとあれば、馬場美濃が答えて言うには、信長の敵は美濃衆に七年手間取ったばかりで、残りはみな信長に怖じる人々であるゆえに軍法も要らないのでございます。そのうえ信玄公と輝虎が、おおかた世間にあるほどの手立て・謀りごとをなされたことについて、他国の弓矢を当御家ではそれほど面白く存じません。ことさら信長も当年三十八歳、天下も三好殿を押しのけ、都の義でまことに我が意見をされるのは去年七月からの事である。軍法も大敵・強敵に逢っての行いでございますから。
解説
この章句が説くこと
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『甲陽軍鑑』品第四十信長国へだち信玄輝虎と終に武篇の参会無之、就中唯今は信長の嫡子城之介殿信玄公御婿にとある縁辺なり、さるに付信長手だてなさるべき敵さのみなし、十二年以前今川義元公と合戦の刻、信長二十七歳にて無類の手抦是なり、其比信長少身にて若ければ、大敵には種々謀ごとありて信長勝利を得給ふなり、謀行の軍法なき弓矢は縦へば下手のあつまりてする能見物のごとし、仕そこなはんと思ひ、見ながらあぶなく候、信長の弓矢も美濃の国と七年の間取合て武功の分別定まるなり、
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『甲陽軍鑑』品第四十今明年の間に右の家康と一戦なうてかなふまじ、さあるに付ては信長も後をかんがへ、今こそ当家と縁辺の無事なり共、家康へ信長加勢あらば両家を相手になされ、信玄公合戦をとげられ、都までほまれのためなれば、是には猶以て軍法のいる所なりと穴山殿に馬塲美濃守申きかす也穴山伊豆守殿馬塲美濃守に又とはるゝ、
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『甲陽軍鑑』品第四十一岐阜の信長は未だ手あひしかとみへざる子細は、申の極月信長とは御無事きれて、酉の三月中旬にはじめて信長持の国東美濃へ取懸、岩村の城を信玄公御先衆に四郎殿·典厩·穴山三人を警固としてせめ給ふ時、信長一万ばかりの人数にて大物見に出る、馬塲美濃守八百の備へにてかこるを見て、岩村の落城にもかまはず信長早々引入て、岩村きりが城を信玄公へ取給ふ其右十日の間に東美濃かんの大寺まで信玄公御手に入候といへども信長終に出あはず候事、
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『甲陽軍鑑』品第四十一曽根内匠がいはく、信玄公の御弓箭、信州村上殿五郡持ち給ひても、信濃国甲州より広ければ、武田勢より村上勢大陣なり、其上村上頼平公武勇のほまれ近国にならぶかたなし、殊に越後為景にかち、越後の内をもせめとる大将と信玄公十八歳より数度の合戦ある間に、同く信州大身衆諏訪殿·小笠原殿·木曽殿各同事にて信玄公と戦ひ、就中上杉衆是は猶以て大敵なり、小田原北条殿ひろき国を持ち給へば、是れ以て大敵なり、日本に弓箭の儀、若手の家康と信長申しあはせられ無事にいたし信玄公とあひたこかふ時は是又大敵なり、又輝虎は日本に当代の强将なれ共此大将衆にから給ふ、是によつて信玄公御武勇当代の無双也、
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『甲陽軍鑑』品第四十旣に貴殿は当屋形信玄公に七歳さきの人にて候へば、信虎公の御代にも其方十七歳より陣をなされ、八年の功瑳の上、信玄公の御代にも七八年は小身にて、しかも時により先衆の中へもまじり給ひ、右二代の間に廿一度武篇·塲数の御證文の中に諸手にすぐれたるとある儀九ツ御座候、御感状を信虎公·信玄公御父子より馬塲美濃殿に被下たりと云ふ儀承り及びたるが、たゞ事ならぬ冥加の人にて、ことに手疵を一ケ所もおひ給はず候、貴殿にくらべて申には努々なし、喩にて申、今井九兵衛は、せりあひ·合戦の初まると即時手を負ふて、此時代の衆の中にて覚になる誉れ一度もなし、是も形のごとくの人なれど、
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『甲陽軍鑑』品第四十一前の極月遠州味方が津原において家康へ加勢の信長衆に、村井·佐久間·平手·水野·沢田などゝ云ふ侍大将共きたつて、ひとはもあはす敗北する、殊更滝川丹波ト全などゝ云ふ侍大将は都合十三頭来て、今ぎれのわたりより引かへし、悉くにげたりと聞、それ故立むかふ事ならずといへども、信玄公は遠慮をふかくあそばし信長大敵の故、功者の馬塲美濃守を指むけなさるゝ、但し岩村の城に秋山伯耆守をさし置給ふ故、先信長押は秋山伯耆守なり、