甲陽軍鑑 / 品第四十
一永祿十丁卯年に太郎義信自害まし〳〵て後は、信玄公跡をつぎなさるべき惣領御座なし、然れ共又其年誕生ある四郞勝賴公嫡子を信玄公養子に被成吉田左近助を以て御使として御曹司を太郞信勝と名付け參らせられ、武田の重代行平の御太刀·左文字の御腰物をゆづり、武田廿八代目と相定めらるゝ、子細は四郞勝賴公母は諏訪の賴茂のむすめ、勝賴公御前は美濃國岩村殿とて織田信長姨の息女也、四郞が父は苟も信玄なれば、いづかたへたよりても是は然るべしとあるの儀にて、信玄公の跡目にと今の御曹子を有之さありて此太郞信勝七歲にて信玄公にはなれまいらせられ候間、信勝廿一歲迄十五年の間父勝賴公に陣代と有る事也、
新字:一永禄十丁卯年に太郎義信自害まし〳〵て後は、信玄公跡をつぎなさるべき惣領御座なし、然れ共又其年誕生ある四郎勝頼公嫡子を信玄公養子に被成吉田左近助を以て御使として御曹司を太郎信勝と名付け参らせられ、武田の重代行平の御太刀·左文字の御腰物をゆづり、武田廿八代目と相定めらるゝ、子細は四郎勝頼公母は諏訪の頼茂のむすめ、勝頼公御前は美濃国岩村殿とて織田信長姨の息女也、四郎が父は苟も信玄なれば、いづかたへたよりても是は然るべしとあるの儀にて、信玄公の跡目にと今の御曹子を有之さありて此太郎信勝七歳にて信玄公にはなれまいらせられ候間、信勝廿一歳迄十五年の間父勝頼公に陣代と有る事也、
書き下し
一永禄十丁卯年に太郎義信自害まし〳〵て後は、信玄公跡をつぎなさるべき惣領御座なし、然れ共又其年誕生ある四郎勝頼公嫡子を信玄公養子に被成吉田左近助を以て御使として御曹司を太郎信勝と名付け参らせられ、武田の重代行平の御太刀·左文字の御腰物をゆづり、武田廿八代目と相定めらるゝ、子細は四郎勝頼公母は諏訪の頼茂のむすめ、勝頼公御前は美濃国岩村殿とて織田信長姨の息女也、四郎が父は苟も信玄なれば、いづかたへたよりても是は然るべしとあるの儀にて、信玄公の跡目にと今の御曹子を有之さありて此太郎信勝七歳にて信玄公にはなれまいらせられ候間、信勝廿一歳迄十五年の間父勝頼公に陣代と有る事也、
現代語訳
一、永禄十年丁卯の年に太郎義信が自害なされて後は、信玄公の跡を継ぎなさるべき惣領が御座ない。しかれども、またその年に誕生のある四郎勝頼公の嫡子を信玄公が養子になされ、吉田左近助をもって御使として、御曹司を太郎信勝と名付け参らせられ、武田の重代の行平の御太刀・左文字の御腰物を譲り、武田二十八代目と相定められる。子細は、四郎勝頼公の母は諏訪の頼茂の娘、勝頼公の御前は美濃国岩村殿とて織田信長の姨の息女である。四郎の父はいやしくも信玄であれば、どちらへ頼ってもこれはしかるべしとある儀にて、信玄公の跡目にと今の御曹司をこれあり。そうであって、この太郎信勝は七歳にて信玄公に離れ参らせられ候あいだ、信勝二十一歳まで十五年のあいだ、父の勝頼公に陣代とある事である。
解説

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『甲陽軍鑑』品第三十九跡の儀は四郎むすこ信勝十六歳の時家督なり、其間は陣代を四郎勝頼と申付候、但し武田の旗はもたする事無用なり、まして我そんしのはた·将軍地蔵の旗·八幡大菩薩の小旗、何も一せつ持すべからず、太郎信勝十六歳にて家督、初陣孫子の時尊師の旗斗り残し、よの旗は何も出すべきなり、
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『甲陽軍鑑』品第六信州伊奈四郎の御事也、信州諏訪頼茂の跡目なる故、武田相伝の信の字をさり給ふ、信玄公の御跡も十五年の間子息太郎竹王信勝廿一歳までの陣代と号してかり孫子の事なる故、武田の御旗は終にもたせ給はず、況んや信玄公尊崇の御幡もゆつらせ給はず、元伊奈におはします時の大文字の旗也、
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『甲陽軍鑑』品第十二御父をうち奉らんと思食立、義信公天道に違ふ事顕れ候故、父信玄公の御意に深く違ひ、子の歳より座敷籠に入れまいらせられ候、亥の歳四郎勝頼公をよび出し、信州伊奈をつかわされ、則ちたかとうの城主と有る時も、義信公へ家老衆を以て信玄公より訴訟の様に仰せ入れられ、殊更武道の異見はあま五郎左衛門、自余のことは小原下総·同丹後守·秋山紀伊守是の四人を書き立て、是れも義信公へ窺い給ひ四郎殿へ付けそへ給ふ、
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『甲陽軍鑑』品第四十是を高坂弾正聞ていはく、此御曹司太郎信勝は近代の名人の大将衆安芸の元就·北条氏康·北越の輝虎·尾州信長·三州の家康·祖父信玄公おさな立に相似たる信勝にてましませばと、只今武田の家万事まつりごとみだりになり、去々年長篠にて勝頼公御分別相違故、長坂長閑·跡部大炊助両人のいさめをもつて信玄公取立の衆尽く討死候て猶家風あしくなり、終に武田の滅却に付ては太郎信勝公のよき生れつきもいらず、むなしく相果て給はんと高坂なみだをながすばかりなり、
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『甲陽軍鑑』品第三十九勝頼は如前大文字の小旗にて勝頼差物法華経の幌をば典厩にゆづり候へ、諏訪法性の甲は勝頼着候て、其後是を信勝に譲り候へ、典厩·穴山両人頼候間、四郎を屋形のごとく執してくれられ候へ、勝頼がせがれ信勝当年七歳に成を信玄ごとくに馳走候て、十六歳の時家督になをし候へ又それがしとぶらひは無用にして、諏訪の海へ具足をきせて今より三年目の亥の四月十二日に沈め候へ、