甲陽軍鑑 / 品第四十
四郞殿の御さた何共仰られず候一去年の正月駿州花澤にて門脇の左の方ひきみへ、五人つゝそれも四郎殿·名和無理介·長閑·諏訪越中·初鹿傳右衞門五人なり、我等は朝もこを少し鐵砲にさへられ其塲へ參らず候事、一去年四月廿八日に越後國の輝虎小田原北條殿に賴まれ、信州のくびきし長沼へほこさきを出す時、信玄公御馬出ざるさきに、伊奈より四郞殿夜がけになされ、謙信一萬五千あまりの人數に、四郞殿八百の備にて合戰をかけらるゝ所に、謙信四郞殿と聞、ほめてなみだをながし、無類の若者かなとて、けんをまはし引とらるゝ、
新字:四郎殿の御さた何共仰られず候一去年の正月駿州花沢にて門脇の左の方ひきみへ、五人つゝそれも四郎殿·名和無理介·長閑·諏訪越中·初鹿伝右衛門五人なり、我等は朝もこを少し鉄砲にさへられ其塲へ参らず候事、一去年四月廿八日に越後国の輝虎小田原北条殿に頼まれ、信州のくびきし長沼へほこさきを出す時、信玄公御馬出ざるさきに、伊奈より四郎殿夜がけになされ、謙信一万五千あまりの人数に、四郎殿八百の備にて合戦をかけらるゝ所に、謙信四郎殿と聞、ほめてなみだをながし、無類の若者かなとて、けんをまはし引とらるゝ、
書き下し
四郎殿の御さた何共仰られず候一去年の正月駿州花沢にて門脇の左の方ひきみへ、五人つゝそれも四郎殿·名和無理介·長閑·諏訪越中·初鹿伝右衛門五人なり、我等は朝もこを少し鉄砲にさへられ其塲へ参らず候事、一去年四月廿八日に越後国の輝虎小田原北条殿に頼まれ、信州のくびきし長沼へほこさきを出す時、信玄公御馬出ざるさきに、伊奈より四郎殿夜がけになされ、謙信一万五千あまりの人数に、四郎殿八百の備にて合戦をかけらるゝ所に、謙信四郎殿と聞、ほめてなみだをながし、無類の若者かなとて、けんをまはし引とらるゝ、
現代語訳
四郎殿の御沙汰は何とも仰せられなかった事。一、去年の正月、駿州花沢で門脇の左の方が引き見えて、五人ずつ、それも四郎殿・名和無理介・長閑・諏訪越中・初鹿伝右衛門の五人である。我らは朝、少し鉄砲に遮られてその場へ参りませんでした事。一、去年四月二十八日に越後国の輝虎が小田原の北条殿に頼まれ、信州の頸城から長沼へ矛先を出す時、信玄公が御馬を出される先に、伊奈から四郎殿が夜駆けになされ、謙信一万五千あまりの人数に、四郎殿は八百の備えで合戦を仕掛けられた所、謙信は四郎殿と聞き、褒めて涙を流し、無類の若者かなと言って、剣を回して引き取られる。
解説
この章句が説くこと
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説苑・善說齊景公子貢に謂いて曰く、「子誰をか師とする。」曰く、「臣仲尼を師とす。」公曰く、「仲尼賢なるか。」對えて曰く、「賢なり。」公曰く、「其の賢たること何如。」對えて曰く、「知らざるなり。」公曰く、「子其の賢を知りて其の奚若たるを知らざるは、可ならんか。」對えて曰く、「今天高しと謂うに、少長愚智と無く皆高きを知る。高きこと幾何ぞや。皆知らずと曰う。是を以て仲尼の賢を知りて其の奚若たるを知らざるなり。」
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論語・子張篇子游曰く、吾が友張や、能くし難きことを為すなり。然れども未だ仁ならず。
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史記 管晏列伝鮑叔既に管仲を進め、身を以て之に下る。子孫世々斉に禄せられ、封邑を有つこと十余世、常に名大夫為り。天下、管仲の賢を多とせずして、鮑叔の能く人を知るを多とす。
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論語・憲問篇子曰く、人の己を知らざるを患えず、其の能わざるを患う。
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論語・子張篇陳子禽、子貢に謂いて曰く、「子は恭を為すなり。仲尼豈に子より賢らんや。」子貢曰く、「君子は一言以て知と為し、一言以て不知と為す。言は慎まざる可からざるなり。夫子の及ぶ可からざるや、猶お天の階して升る可からざるがごときなり。夫子の邦家を得たらば、所謂『之を立つれば斯に立ち、之を道けば斯に行き、之を綏んずれば斯に来たり、之を動かせば斯に和す。其の生くるや栄え、其の死するや哀しむ』。之を如何ぞ其れ及ぶ可けんや。」