甲陽軍鑑 / 品第六
然るに尊氏公より十三代の公方、萬松院義晴公、天文十九庚戌年御逝去の時、御遺言に阿波の三善修理太夫を賴み給ふ間、光源院義輝公いまだ十五歲にて御座をもり立て奉り、十四代の御世をつがせ奉るやうにと、修理太夫殿を御賴あり、扨て又修理太夫殿の嫡子左京太夫は、光源院の御妹むこと御定め有之、然は松永は左京太夫殿をもり立て、左京太夫殿は公方を奉仰にをひては、君臣共に長久ならん、剩光源院を討まいらする其罪のがれがたきにや、
新字:然るに尊氏公より十三代の公方、万松院義晴公、天文十九庚戌年御逝去の時、御遺言に阿波の三善修理太夫を頼み給ふ間、光源院義輝公いまだ十五歳にて御座をもり立て奉り、十四代の御世をつがせ奉るやうにと、修理太夫殿を御頼あり、扨て又修理太夫殿の嫡子左京太夫は、光源院の御妹むこと御定め有之、然は松永は左京太夫殿をもり立て、左京太夫殿は公方を奉仰にをひては、君臣共に長久ならん、剰光源院を討まいらする其罪のがれがたきにや、
書き下し
然るに尊氏公より十三代の公方、万松院義晴公、天文十九庚戌年御逝去の時、御遺言に阿波の三善修理太夫を頼み給ふ間、光源院義輝公いまだ十五歳にて御座をもり立て奉り、十四代の御世をつがせ奉るやうにと、修理太夫殿を御頼あり、扨て又修理太夫殿の嫡子左京太夫は、光源院の御妹むこと御定め有之、然は松永は左京太夫殿をもり立て、左京太夫殿は公方を奉仰にをひては、君臣共に長久ならん、剰光源院を討まいらする其罪のがれがたきにや、
現代語訳
しかるに尊氏公より十三代の公方、万松院義晴公が天文十九庚戌年にご逝去の時、御遺言に阿波の三好修理太夫を頼まれたので、光源院義輝公がいまだ十五歳であられた御座を守り立て奉り、十四代の御世を継がせ奉るようにと、修理太夫殿にお頼みがあった。さてまた修理太夫殿の嫡子左京太夫は、光源院の御妹婿と定めがあった。であるから松永は左京太夫殿を守り立て、左京太夫殿は公方を仰ぎ奉るのであれば、君臣ともに長久であったろう。あまつさえ光源院を討ち参らせる、その罪は逃れがたかったのか。
解説
この章句が説くこと
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『甲陽軍鑑』品第六仕置の首尾不合光源院を討ち奉る故、公方家の諸侯三善家の侍と二つに破、以上五畿内三つになり、昨日味方と思へは今日は敵、就夫さすがの松永弾正も後勘やなかりけん、信長公を引出し己が敵を三ヶ年の間に大方成敗す、此砌り両畠山病死す、
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『甲陽軍鑑』品第六信長公の手にたつべき丹波の赤井悪右衛門も三ヶ年以前頸きれ疔と云ふ腫物にて逝去し、大方生れ替りになり、松永一人残居終に己が身に計策かかり、信長に敵をして不慮のけいさくに、松永も信長のためにうち死す、其年の七月より全く信長天下の主として、都の諸司代をも信長より知り給ふ、三善家の滅却は松永欲心を発し天下を望み、傍輩共不和になりし故也雖然修理太夫殿信心深く智恵才覚無双の人なる故、天下を二代知り給ふ、
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『甲陽軍鑑』品第六松永弾正といふは三善修理太夫殿へ右筆に罷出、分別才覚をもつて立身をいたし、修理太夫殿逝去の後子息左京の太夫殿の御局と夫婦に罷成る、然間内縁をもつての故悉皆政道弾正がはからひとなる、依之三善家に伝はる家老松永と中不和、件の松永和州に居住しけるに、屏下地の為にとて、我領地の柿の串の長さ間半に定め、其外種々貪り詔ひたる仕置なれは、民悉く迷惑す、
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『甲陽軍鑑』品第六天下へなをり旣に都の諸司代も三善家より定め置き、五畿内義輝の事は不及申ニ近国の諸士大小共に旗下に仕り、諸人に渴仰せられ、公方光源院の御妹を嫡子左京太夫殿へ御台につかはされける、
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『甲陽軍鑑』品第六弾正が一騎当千と頼もしく思給し使、心がはりして堺より加勢をよぶ、其状を信長公へまいらする事、是れ天罰の程こそをそろしけれ、いづれの家の破るゝも臣君を蔑にし奉り、下を詔ふ故也、時うつり様体こそかはれ共主君の家を破るは松永が小人の故なりしかば、其身もほろびうするぞかし、能く観じて見給へ、
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『甲陽軍鑑』品第六さる間松永生害の時、我城へ和泉の堺より加勢をこせと有之、状を信長へもち来る、信長公其使にほうびをとらせ、明々後日の夜半に忍びて、十人二十人づゝ加勢をまいらせん、此人を迎に給はれと、堺よりの返事のごとくに書とめて、松永方へさしこさる、其使とかたくあいづを定め、三日にあたる夜半に信長公の人数百人余り、松永が城へいれ、其夜城内を放火し、外よりもせめ入り、右に入たる人数と一つになりつめの城へをしこみ、永禄十三年庚午の年、松永弾正切腹す、