甲陽軍鑑 / 品第四十八
さて彌兵衞が二番目の弟甚內にも五貫の御加恩、是は一條殿の衆なり、三番目辻彌惣にも五貫の御加恩是は又土屋右衛門尉衆なり、辻彌兵衞が威光をもつて弟の甚内·彌惣までに增知行これ有、但し甚內兄の彌兵衛に結句ましのおぼへ有、さて又みしな·廣瀨をば御旗屋へ召よせられ、しかも本のさいはいゆるし下さるゝ、あさからぬ冥加のおほへ者也とほめざる人はなかりける、
新字:さて弥兵衛が二番目の弟甚内にも五貫の御加恩、是は一条殿の衆なり、三番目辻弥惣にも五貫の御加恩是は又土屋右衛門尉衆なり、辻弥兵衛が威光をもつて弟の甚内·弥惣までに增知行これ有、但し甚内兄の弥兵衛に結句ましのおぼへ有、さて又みしな·広瀨をば御旗屋へ召よせられ、しかも本のさいはいゆるし下さるゝ、あさからぬ冥加のおほへ者也とほめざる人はなかりける、
書き下し
さて弥兵衛が二番目の弟甚内にも五貫の御加恩、是は一条殿の衆なり、三番目辻弥惣にも五貫の御加恩是は又土屋右衛門尉衆なり、辻弥兵衛が威光をもつて弟の甚内·弥惣までに增知行これ有、但し甚内兄の弥兵衛に結句ましのおぼへ有、さて又みしな·広瀨をば御旗屋へ召よせられ、しかも本のさいはいゆるし下さるゝ、あさからぬ冥加のおほへ者也とほめざる人はなかりける、
現代語訳
さて弥兵衛の二番目の弟の甚内にも五貫の御加恩。これは一条殿の衆なり。三番目の辻弥惣にも五貫の御加恩、これはまた土屋右衛門尉の衆なり。辻弥兵衛の威光をもって、弟の甚内・弥惣までに増知行がこれあり。ただし甚内は、兄の弥兵衛に結局はましの覚えあり。さてまた三品・広瀬をば御旗屋へ召し寄せられ、しかも本の采配を許し下さるる。浅からぬ冥加の覚え者なりと、褒めざる人はなかりける。
解説
訴えに勝った者の加恩が、別の組にいる弟二人にまで及ぶ。しかも弟のほうが覚えは上だと注記される。一方、負けた側は呼び寄せて元どおり采配を許す。双方が立つ形で終わり、誰もが褒めた。双方が立つ形で終わり、誰もが褒めた。勝った側には弟二人にまで加恩が及び、負けた側は呼び戻されて元どおり采配を許されている。裁きの後始末まで含めて一つの仕事になっている。
この章句が説くこと
加恩兄弟采配両立冥加辻
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