甲陽軍鑑 / 品第六
如案打合時人のすくなき方の後より大勢かけ付てあら手を入替へうちければ、初め大勢有し方打まけてちり〳〵ににげ亂る、見物の者も我先にとのきふためく、竹千世殿見給ひて云ぬ事かと宣まひて、かたにのせ奉りたる中間のかしらを御手にてたゝきわらはせ給ふ、虎生三日有食牛機と云々、此竹千世殿は今家康と名をよばれ、海道一の弓取也、命長くましまさば是ぞ後には天下の主共ならせ給んと、心ある人は言あへり、
新字:如案打合時人のすくなき方の後より大勢かけ付てあら手を入替へうちければ、初め大勢有し方打まけてちり〳〵ににげ乱る、見物の者も我先にとのきふためく、竹千世殿見給ひて云ぬ事かと宣まひて、かたにのせ奉りたる中間のかしらを御手にてたゝきわらはせ給ふ、虎生三日有食牛機と云々、此竹千世殿は今家康と名をよばれ、海道一の弓取也、命長くましまさば是ぞ後には天下の主共ならせ給んと、心ある人は言あへり、
書き下し
如案打合時人のすくなき方の後より大勢かけ付てあら手を入替へうちければ、初め大勢有し方打まけてちり〳〵ににげ乱る、見物の者も我先にとのきふためく、竹千世殿見給ひて云ぬ事かと宣まひて、かたにのせ奉りたる中間のかしらを御手にてたゝきわらはせ給ふ、虎生三日有食牛機と云々、此竹千世殿は今家康と名をよばれ、海道一の弓取也、命長くましまさば是ぞ後には天下の主共ならせ給んと、心ある人は言あへり、
現代語訳
案の如く、打ち合った時、人の少ないほうの後ろから大勢が駆け付けて新手を入れ替えて討ったので、初めに大勢であったほうが打ち負けて、散り散りに逃げ乱れる。見物の者も我先にと退き慌てる。竹千代殿はご覧になって、言わぬ事かとおっしゃって、肩に乗せ奉った中間の頭を御手で叩いて笑わせられた。虎は生まれて三日にして牛を食らう機あり、というところである。この竹千代殿は今、家康と名を呼ばれ、海道一の弓取りである。命が長くあられるなら、これぞ後には天下の主ともなられようと、心ある人は言い合っている。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『甲陽軍鑑』品第六中間の肩にめし五月菖蒲きり見物にいでさせ給ふ、一方に人三百ばかり一方に百五十ほどなり、見物の人々是をみて人のすくなきかた必ずまけんとて、大勢の方へ立よらざる者はなかりける、さるほどに竹千世殿を肩にのせ奉りたる中間も、大勢の方へ立よらむとす、其時竹千世仰らるゝは、何とて我を皆人の行方へつるゝぞ、今たゝきあふならばかならず人のすくなき方勝べし、あれほどすくなき者共が出張てゐたるは能々多勢の方を弱く思ふた者也、又は両方討合時多勢にてすくなき方をすけむと思ふ事もあらん、いざすくなきかたへゆきて見物せんとのたまふ、御供の者共腹立してしらぬ事をばのたまふなとて、無理に大勢の方に留けり、
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『甲陽軍鑑』品第六さる間竹千世殿駿州今川義元公に属し給ひ蔵人元康と元服し給ひ、十五歳にて参州岡崎へ帰城有て、十九歳の五月義元公の先手として尾州へ発向ある義元の先陣の人々大高の城をせめ落し、番手に元康を置給ふ翌日義元公討死し給ふと元康公伯父水野下野方より以飛脚告げ来る、
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『甲陽軍鑑』品第六三略にも義者不為不仁者死智者不為闇主謀云々、家康公も大方は此理にてもあらん、家康公十二歳の時菖蒲ぎりの勝負を見定め給ふ、心ざしの今に至るまで誉ありて、三河一国遠州半国の主と成り給ふ、又時のけんに属したる侍と譜代のわかちを長坂長閑老跡部大炊介殿能々被存知者也一毛利元就公おさなくおはせし時厳島へ社参あり、
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『甲陽軍鑑』品第四十稍や有て仰らるゝ、長坂長閑尋べき事あり、三河の国岡崎家康と云ふ若者は当年はいくつばかりの侍ときゝつると尋給ふ、長坂長閑申は、寅の歳にて当年二十五歳と承り及び候、信玄公仰らるゝ、義元討死の時節より当年まで七年なるが、件の家康十九歳より今までに三河国一国をおさめ候に付、しかも彼国日本六十余州にて人のかぞゆる侍の武篇持く国なれば、合戦の儀年に二度はあれ共一度なき事なし、旣に家康或時は浄土寺へ行き知識にあひ、念仏の十念と云ふ物をとり疑がひをきつて、敵三千ばかりを我人数二百の内外にて家康勝利を得たる共きゝつるぞ、
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『甲陽軍鑑』品第四十家康今年は定めて三十斗りにても有らん、四十に及び殊に大身の信長にいつ位もましの、しまり所ある分別あり、さすがに武士の心ばせなき者ならば、年こばいに相似あはぬとも申さんずるが、三河の国おさむるとて十九歳より廿六歳迄八年の間に粉骨をつくし、せんかうのほまれかたのごとくなれば、海道一番の武士と申しながら日本国にもあまり多くはあるまじ、丹波の赤井·江北の浅井備前守·四国の長宗家部·会津の盛氏若手には此家康ならん、扨時過ぎたる此桃をすてたる分別出世をかんがへて如此、其出世とは年明ば吉事也、此心は馬塲美濃·内藤修理·高坂は定めて合点つかまつるべきとのたまふなり、
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『甲陽軍鑑』品第四十扨て家康は義元公討死より以降十年内外の国持ちなるが、駿河さかりの作法をおさなくて見きいたる儀ならん、信玄公の奉行衆公事さばく、様子に少し相似たるごとくなり、何にても公事の落着はめづらしき事きかね共、それは昨今の家康国持なる故、各々の感じ給ふことはまだ十年過ぎてもあるまじ、あの若き家康申付る三人の奉行に三様の形義をいひつけたるとみへて、仏かうりき·鬼作左·どちへんなしの天野三兵と浜松にて落書にたてたると聞く、