甲陽軍鑑 / 品第四十八
信玄公慈悲深き大將にてましますにより、彼大藏左衞門家に久敷者の筋なれば親の跡二百貫の知行を被下候間、何とも手抦をいたすやうにと思召御陣の在時は馬具足など被下此度似合敷心ばせを仕れと被仰ければ、いさぎよく請おひ申ても勝負の時は頓てはづす、しかも又遠く迯る事度々においてあり、比興の度に籠へ入事七度也、七度めに信玄公家老の衆を召、仰出されけるは岩間大藏左衞門、種々おどしすかし取立候へ共何共ならず生れつきたる未練者也、御分國中の侍或は僧俗一切の人の事、惡き儀、訴人申役を此岩間大藏左衞門に仰付らるゝ故右林生坊·昌沈坊と申新立寺の法花坊主、女房持候と有儀を岩間大藏左衞門悅び二人の町人同道致し奉行所へ訴へ申、
新字:信玄公慈悲深き大将にてましますにより、彼大蔵左衛門家に久敷者の筋なれば親の跡二百貫の知行を被下候間、何とも手抦をいたすやうにと思召御陣の在時は馬具足など被下此度似合敷心ばせを仕れと被仰ければ、いさぎよく請おひ申ても勝負の時は頓てはづす、しかも又遠く迯る事度々においてあり、比興の度に籠へ入事七度也、七度めに信玄公家老の衆を召、仰出されけるは岩間大蔵左衛門、種々おどしすかし取立候へ共何共ならず生れつきたる未練者也、御分国中の侍或は僧俗一切の人の事、悪き儀、訴人申役を此岩間大蔵左衛門に仰付らるゝ故右林生坊·昌沈坊と申新立寺の法花坊主、女房持候と有儀を岩間大蔵左衛門悅び二人の町人同道致し奉行所へ訴へ申、
書き下し
信玄公慈悲深き大将にてましますにより、彼大蔵左衛門家に久敷者の筋なれば親の跡二百貫の知行を被下候間、何とも手抦をいたすやうにと思召御陣の在時は馬具足など被下此度似合敷心ばせを仕れと被仰ければ、いさぎよく請おひ申ても勝負の時は頓てはづす、しかも又遠く迯る事度々においてあり、比興の度に籠へ入事七度也、七度めに信玄公家老の衆を召、仰出されけるは岩間大蔵左衛門、種々おどしすかし取立候へ共何共ならず生れつきたる未練者也、御分国中の侍或は僧俗一切の人の事、悪き儀、訴人申役を此岩間大蔵左衛門に仰付らるゝ故右林生坊·昌沈坊と申新立寺の法花坊主、女房持候と有儀を岩間大蔵左衛門悅び二人の町人同道致し奉行所へ訴へ申、
現代語訳
信玄公は慈悲深き大将にてましますにより、かの大蔵左衛門は家に久しき者の筋なれば、親の跡の二百貫の知行を下され候あいだ、何とも手柄をいたすようにと思し召し、御陣のある時は馬・具足など下され、この度は似合わしき心ばえを仕れと仰せられければ、潔く請け負い申しても勝負の時はやがて外す。しかもまた遠く逃ぐる事、度々においてあり。比興の度に籠へ入る事は七度なり。七度めに信玄公が家老の衆を召し、仰せ出だされけるは、岩間大蔵左衛門は種々おどし賺し取り立て候えども何ともならず、生まれつきたる未練者なり。御分国中の侍あるいは僧俗一切の人の事、悪しき儀、訴人申す役をこの岩間大蔵左衛門に仰せ付けらるるゆえ、右の林生坊・昌沈坊と申す新立寺の法花坊主が女房を持ち候とある儀を、岩間大蔵左衛門が悦び、二人の町人を同道いたし奉行所へ訴え申す。
解説
この章句が説くこと
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『甲陽軍鑑』品第四十八能登国へぞ遣られける甲府法花宗の僧公事の事一甲州府中穴山少路に新立寺と申、日蓮宗の寺あり、是に脇寺十四五有、此十四五の中に林生坊·昌沈坊と云ふ坊主、女房を持、是を近所の町人ぬきな加兵衛·玉越杢左衛門両人にてよくとちの女房迯ぐることならぬ様に隣の坊主に手形をさせ、扨訴人岩間大蔵左衛門方へ告る、又此大蔵左衛門訴人と成、謂は数度の臆病を仕る故也、
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『甲陽軍鑑』品第四十訴人岩間大蔵左衛門と別して入魂有て人の取やりなされ、彼大蔵左衛門に年々合力なとしたまふに付て目付衆やがて申上る、信玄公聞召訴人とさだむる者にちかづき、殊にしたしき儀不審のたつ様子なりとて御せんさく候へば、案のごとく五郎殿関東武蔵の大石一党と内通にて逆心の企顕はれて、其年中に勝沼五郎殿を信玄公御成敗被成候也、
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『甲陽軍鑑』品第四十我もよりの大略のはたらきを一といひてよき手抦専らにする人をおとりに申者、おのれが身にかけてあしうしなす女侍をも両方善悪共に信玄が書付て置たりと仰られ候、定て其方土屋殿は見給はぬかと山県申さるれば、右衛門尉当年も両度見申候、御家中つよき事浅からず、廿ヶ年こなたへは左様の者一人もなし、信虎の御代に信玄公十六歳よりあそばし置る、卅の御歳迄十五年の間に九人左様のあしき人有て、各よの事によそへて改易なれば、其親類衆へのためにむさと申さず候、若き衆にかたり候はど、やがて彼一類をも女侍のよし贔負也といはど、
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『甲陽軍鑑』品第四十八信玄公広瀨郷左衛門·みしな肥前·こすげ五郎兵衛、此時代の物をば山県三郎兵衛家中によらず、御分国の諸家中にて老功のおほへある者には十双倍馳走まします仔細は、老功の者は信虎公への奉行半分、信玄公御代に半分わけ〳〵なるが、右三人時代の者はみな信玄公へばかりの忠節忠功の故念比し給ふ、味各別なり、かやうに有て大将の御徳おほし、さりながら又前代の者をも少も愚成様子は無御座者なり、前代の忠功と我取立の忠功とは、取立は先づ心安く、其上我時代の大将をば下々の侍も一入威光つよく申者なり、大小·上下共に武士はことば一ツにても其勝負まつたく、又あやうきこともあり、下として上をはからふ事なしとは申せども、
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『甲陽軍鑑』品第四十八下々より大将をたつとみ奉れば勝利をうる事うたがひなしさるに付信玄公女坂にて人夫の八木をとりこぼしておきたるをもつて、諸人の大将を尊く存ずる儀をかんがへしろしめさるゝ事是も大将の秘事なり、口伝に有信州更級出家公事の事一天文二十三年甲寅五月三日の公事、信州更級に真光寺と申律宗の寺に円蔵院と云ふ住持両人の弟子を持、兄弟子を善万坊と云て一文不知の坊主なり、弟弟子は琳切と云て是は又師匠円蔵院か跡をつがせんと兼て約束故学問に出す、しかも律宗の事なれば大和国奈良にて学問仕故八年あまり音信なし、
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『甲陽軍鑑』品第四十八公事になりて跡先の算用をきはむれば、出家金子の方に一度取たると申て女をかへさず、弾左衛門いきたる内、女とられて後も、少しつゝは年々に返弁いたすは此女を取かへさんといふ事、證人いくたりもありといへども、以上に法順女をもどさねば科におとして、彼僧を糺明より外は別になし、さありて仏体をまなぶ出家を、楚忽に糺明いたす事、何と無智の僧にても下々にてならざるやうに、信玄公常々の御仕置なれば、奉行則屋形へ申上らるゝ故、