甲陽軍鑑 / 品第六
さる間竹千世殿駿州今川義元公に屬し給ひ藏人元康と元服し給ひ、十五歲にて參州岡崎へ歸城有て、十九歳の五月義元公の先手として尾州へ發向ある義元の先陣の人々大高の城をせめ落し、番手に元康を置給ふ翌日義元公討死し給ふと元康公伯父水野下野方より以飛脚告げ來る、
新字:さる間竹千世殿駿州今川義元公に属し給ひ蔵人元康と元服し給ひ、十五歳にて参州岡崎へ帰城有て、十九歳の五月義元公の先手として尾州へ発向ある義元の先陣の人々大高の城をせめ落し、番手に元康を置給ふ翌日義元公討死し給ふと元康公伯父水野下野方より以飛脚告げ来る、
書き下し
さる間竹千世殿駿州今川義元公に属し給ひ蔵人元康と元服し給ひ、十五歳にて参州岡崎へ帰城有て、十九歳の五月義元公の先手として尾州へ発向ある義元の先陣の人々大高の城をせめ落し、番手に元康を置給ふ翌日義元公討死し給ふと元康公伯父水野下野方より以飛脚告げ来る、
現代語訳
そうしているうちに竹千代殿は駿州の今川義元公に属せられ、蔵人元康と元服なさり、十五歳で参州岡崎へ帰城されて、十九歳の五月、義元公の先手として尾州へ発向された。義元の先陣の人々が大高の城を攻め落とし、その番手に元康を置かれた。翌日、義元公が討死されたと、元康公の伯父である水野下野の方から飛脚をもって告げて来た。
解説
桶狭間の同じ日を、家康の側から書き直している。攻め落としたばかりの城に置かれ、退路は敵地の中。主君討死の一報が、味方ではなく織田方に付いた伯父から届く。この状況で何を疑い何を待つかが、次の段の全部になる。この状況で何を疑い何を待つかが、次の段の全部になる。攻め落としたばかりの城に置かれ、退路は敵地の中という条件が先に置かれている。
この章句が説くこと
家康大高番手急報桶狭間岐路
関連する章句
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『甲陽軍鑑』品第六元康聞給ひて二のくる輪まで出させ給ふが、又立ち帰り本城に御座家老の人御前に参り、是はいかなる事ぞと申す、元康聞き給ひて義元公討れさせ給ふと水野野州より告来る、然るに野州敵方共味方共見へず義元公御利運におひては、我をたよりて今川方に成べし、若し又信長利運に成ならば籠居して義元へ礼を申さゞるを忠節たりといはん覚悟なれ共、先つ大略は信長方のやうなる物ぞかし、されば伯父といひながら敵方より告来るは計略と思ふへし、計略するはいにしへより今に至るまて敵味方のならひ也、
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『甲陽軍鑑』品第十六又他国にても遠からぬ、九年以前の庚申の年の五月、今川義元公討死の刻、今川家の家老、岡部丹波守尾州星崎の城にて古今まれなる手抦をいたす故、義元公は討死なれども信長公今川家を奥深く思ひ給ひ、氏真公無分別微弱にておはしませど、今に駿河長久なるは偏へに岡部丹波守が、武道の心ばせちがへさるをもつてなり、又三州家康公も、右義元公御討死の節、尾州大高の城にて武道の御心ばせあさからざるをもつて、近国·遠国までも其名かくれなし、其武道たがはせ給はぬ故、
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『甲陽軍鑑』品第六其夜は大高の城に逗留し玉ひ翌日岡崎より今川の家老以使札大高の城あけ来り給へとの事也、即其状を取て證拠とし元康帰陣し給ふ、此趣信玄公詳に糺て聞給ひ、元康は武道分別両方達したる人也、於日本若手の武士ならんと不斜ほめ給ふ、
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『甲陽軍鑑』品第十六右庚申の年より丁卯まで八ヶ年の間に、我生国をおさめ今卅より内廿七歳にて、三河一国の諸侍悉く家康公の被官となる、しかも大高にての時分は家康公十九歳の時なり、其年に当て三州の内一の宮の城に家康内の者、本田百介と云ふ者籠りたるを、氏真公出馬し給ひ、信虎公も御出有り、其時氏真公の人数駿河·遠江·東三河を始め悉く引具し一万八千にてせめ給へども百介こらへて城をあけず其後家康公三千ばかりにて後詰めをし給ひ、駿河勢をおひはらい、家康堅固にしてしばらく城を持ち給ふ、
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『甲陽軍鑑』品第四十七右金丸平三郎をきりたる落合彥介何方へ可参と僉議まち〳〵なり、然れ共駿河今川殿小田原北条殿いづれも其比は御無事にてましませば、少しのとがには参る者これあれども、かやうの科の者は中々今川殿·北条殿へは不参、尾州信長も庚申の年の五月今川殿と合戦に勝、義元を討とり、其いきはひにて尾州を随へ、同年のくれに美濃の国へとりかけ、七年戦かふて七年目寅の年と申すに信長公三十三のとし美濃·尾張両国の主と成給ふ、彼彥介が仕合せも右申の歳、殊更三月なれば未た信長も尾州さへみなもたぬ時にてあれば、信長へと疑ひやうもなし、猶以て家康は其年十九歳の六月までは元康と申、駿河今川殿御旗下なり、騎河·遠江·三河三ケ国今川殿の御国なる故、家康も岡崎の城一ツやう〳〵所持に付、
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『甲陽軍鑑』品第四十是れは小身なる侍の事、大身の上には一のおほへ大合戦こぜりあひ、二のおぼへ城せめ、第一には人をよく見知、国の仕置見る事になさるゝ事、是は又国半国とも、もつ大将の御手抦是なり、然る間右の家康は十二年以前に十九歳にて尾州大高の覚へ、三河国一の宮の後詰、同かんだいじの合戦、吉良にての合戦、山中の平ぜめ信長すけ、江州あね川合戦偏へに家康武功故信長の勝利と云ふ、同若狭の国にて信長にすてられたる時の家康はたらき、遠州懸川にて今川氏真をせめて氏真に降参させ申事、其外三河国において七年に大方七度の合戦有りと聞く、