甲陽軍鑑 / 品第十四
又尾州織田信長は日本にて、上杉管領入道輝虎につゞきては、織田右大臣信長とて信玄公他界まし〳〵て後は、兩大將を弓矢の花の本に申す中にも、信長は六年己來都の異見なれば、武邊のつよみなる塲數は、輝虎といへども結句信長と名をよぶ者多し、此信長をも下郎の歌に作りうたふ、一に憂事金ヶ崎、二にはうきこと志賀の陣、三に福島野田ののき、口〓〓と、
新字:又尾州織田信長は日本にて、上杉管領入道輝虎につゞきては、織田右大臣信長とて信玄公他界まし〳〵て後は、両大将を弓矢の花の本に申す中にも、信長は六年己来都の異見なれば、武辺のつよみなる塲数は、輝虎といへども結句信長と名をよぶ者多し、此信長をも下郎の歌に作りうたふ、一に憂事金ヶ崎、二にはうきこと志賀の陣、三に福島野田ののき、口〓〓と、
書き下し
又尾州織田信長は日本にて、上杉管領入道輝虎につゞきては、織田右大臣信長とて信玄公他界まし〳〵て後は、両大将を弓矢の花の本に申す中にも、信長は六年己来都の異見なれば、武辺のつよみなる塲数は、輝虎といへども結句信長と名をよぶ者多し、此信長をも下郎の歌に作りうたふ、一に憂事金ヶ崎、二にはうきこと志賀の陣、三に福島野田ののき、口〓〓と、
現代語訳
また尾州の織田信長は日本において、上杉管領入道輝虎に続いては織田右大臣信長といって、信玄公がご他界された後は、両大将を弓矢の花の本と申す。その中でも信長は六年このかた都のことを見ているので、武辺の強みとなる場数は、輝虎といっても、結局は信長と名を呼ぶ者が多い。この信長をも下郎が歌に作って歌う。一に憂きこと金ヶ崎、二には憂きこと志賀の陣、三に福島野田の退き、と歌い申すのである。
解説
信長の評価も同じ形で示される。信玄の死後は輝虎と信長が二大将だと認めたうえで、下郎の歌に三つの負け戦を並べる。金ヶ崎、志賀、野田福島。褒める話の直後に必ず歌を置くのがこの巻の型で、名声と実際の落差が繰り返し確かめられている。褒める話の直後に必ず歌を置くのが、この巻の型である。名声と実際の落差を、下郎の歌という形で繰り返し確かめている。
この章句が説くこと
信長輝虎評判歌負場数
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『甲陽軍鑑』品第四十頓て又三年の間に氏康公·氏政公·信玄公三大将を相手にして輝虎は一大将なれ共、松山落城をきこしりぞかず、しかもきさいの城を攻おとし、城王は忍の成田がおとうと小田の助三郎といふ者をはじめ、雑兵三千なでぎりにいたされのがるゝ事、信長は二十七歳の時八百の人数にて二万の大敵義元公にかち、其後公方様御供申、天下へ仕すへまいらせ、三年の間公方を守護し奉り其以後都支配の事、いづれも此外自余の大将衆おぼへに成程の事はいかほども御座あれ共それは際限なし、
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『甲陽軍鑑』品第三十九扨信長·家康は互にあなたをすけ、こなたをすけ、利運に互に仕り、すでにもつて信長はまきたる城をまきほぐし、味方を捨、退口あらき事数度あり、然も一向坊主などを敵にして、家康なくば成間敷候、本より家康は少身なる若気也、又奥両国にも輝虎ほどなる大将なし、四国·九国にも毛利元就程なるはなし、日本国中に右の大将衆程の誉れの侍、今は大唐にもなきと聞ゆる、然所に信玄手がらは若き時分より他国の大将をたのみ馬を出させ、両旗をもつて弓矢を取たる事一度もなし、まきたる城をまきほぐしたる事一度もなし、味方の城を一ツと敵に取しかれたる事なし、甲州のうちに城墎をかまへ用心する事もなく、屋敷がまへにて罷在、
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