甲陽軍鑑 / 品第四十七
彼志村金ノ助親は志村金之丞といふて信虎公の御代に、駿河さはの原にて信虎公氏綱と合戰ありて信虎公勝給ふ時、畢竟飯富兵部が廿七八の時、强き事巳の時なるを以て、北條家をつきくづす、其刻此金ノ介が親の志村金之丞一番に鎗をいれはじめ、其外度々の手抦の者なり、節々手疵をかうふる故一入煩ひにて終に死する、彼親いひをしへにて、牢人衆などを金ノ助念比仕り候、
新字:彼志村金ノ助親は志村金之丞といふて信虎公の御代に、駿河さはの原にて信虎公氏綱と合戦ありて信虎公勝給ふ時、畢竟飯富兵部が廿七八の時、强き事巳の時なるを以て、北条家をつきくづす、其刻此金ノ介が親の志村金之丞一番に鎗をいれはじめ、其外度々の手抦の者なり、節々手疵をかうふる故一入煩ひにて終に死する、彼親いひをしへにて、牢人衆などを金ノ助念比仕り候、
書き下し
彼志村金ノ助親は志村金之丞といふて信虎公の御代に、駿河さはの原にて信虎公氏綱と合戦ありて信虎公勝給ふ時、畢竟飯富兵部が廿七八の時、强き事巳の時なるを以て、北条家をつきくづす、其刻此金ノ介が親の志村金之丞一番に鎗をいれはじめ、其外度々の手抦の者なり、節々手疵をかうふる故一入煩ひにて終に死する、彼親いひをしへにて、牢人衆などを金ノ助念比仕り候、
現代語訳
かの志村金ノ助の親は志村金之丞と言うて、信虎公の御代に駿河沢の原にて信虎公と氏綱が合戦があり、信虎公が勝ち給う時、畢竟、飯富兵部が二十七八の時、強い事が巳の時であるをもって北条家を突き崩す。その刻、この金ノ介の親の志村金之丞が一番に鑓を入れ始め、そのほか度々の手柄の者である。節々に手疵を被るゆえに一入の煩いにて終に死する。かの親の言い教えにて、牢人衆などを金ノ助は懇ろにいたし候。
解説
親は先陣に鑓を入れる働きを重ね、その傷がもとで死んだ。牢人を大事にせよというのはその親の教えで、武笠に宿を貸したのもそこから来ている。行いの出どころが、一代前まで遡って書かれている。行いの出どころが、一代前まで遡って書かれている。牢人を大事にせよという教えは、先陣に鑓を入れ続けた父から受け継いだものだった。
この章句が説くこと
志村親一番鑓手疵教え牢人
関連する章句
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『甲陽軍鑑』品第四十七扨て件の志村金ノ助度々の手がらにて有りつるが時田合戦に討死する、其子に志村金右衛門と申す、飯富兵部御成敗ありて後、兵部同心諸手へわけらるゝ、此志村金右衛門をば板垣殿へ付け下さるゝ、板垣家中にても平原宮内ノ介·志村金右衛門とて両人わか手の持く侍なり如件、
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『甲陽軍鑑』品第四十七一同未の年、しかも同飯富兵部同心中に公事あり、子細は志村金の介·むかさ与一郎と云ふ侍有、志村は甲州そせきの者、むかさは遠州牢人なれば、志村むかさをかいほうして宿をかし懇ろするほどに、両人さながら兄弟の如くにて飯富兵部同心の中にても、志村·むかさとてわかき衆の中にて一対男と申ほどなれば、陣の時も同陣也、
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『甲陽軍鑑』品第四十七又金ノ助父の志村金之丞を信玄公御存知なれば、悪くさばき喧嘩などさせ、金ノ助を失ひ候はゞ、我ためも屋形の御前もいかゞなりとて、さすがの飯富兵部も下にてさばく事ならずして御前さばきになる、信玄公両人を御弓の番処へめしよせられ、左右のめやすよせてきこしめし、
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『甲陽軍鑑』品第四十七さて其後武かさ与一郎方々へありき、志村金ノ介が中間大剛者にて金ノ介しあましたるを、我等が仕出してくれ候故、如此手おふたるとて、島の湯なとにて股の疵少しのあとを諸人に見する故、志村金ノ助是をきゝ、大なるいひ事になる、されども志村金ノ介おぼへの者のすぢなれば、
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『甲陽軍鑑』品第四十七或る時甲府にてむかさ与一郎あそひに出る時刻、志村金の助被官を折檻致し、口ごたへ仕りたるとて刀をぬきて今の中間をきらんと仕候へば、被官も大脇指をぬき、ふりながらむこくにかけいづる、跡より金の助追かくれども中間殊の外達者なる者にてにげのびぬ、さて右のむかさ与一郎宿へもどるとて此仕合にゆきあたる、もとより志村金の介と二なき近付也、さなくとても侍の役、旁以てのことなれば、刀抜むかふ此中間むかさにきられて、ころびながら持たる大脇指を投つけて、むかさ与一郎がふともゝへ三寸ばかりたつ、
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『甲陽軍鑑』品第四十七ざて志村金の介追付し、にくしと申て中間のくびをきりはなす、むかさ申は、はや死したるに其まゝ置給へといふ、さて又むかさ与一郎が少手を負たれば志村殊の外迷惑に存知、かねて宿をかすなれば猶以てむかさ与一郎をつれだちて、昼夜離れず養生仕りながら各傍輩衆に志村金ノ介申すは、むかさ此手にて果られば、志村金ノ介もともに腹を破りて死なんと、金打を仕候へども、あさ手にて五十日の間に平愈する、