甲陽軍鑑 / 品第四十七
彈正は七月川中島へ罷歸候、則ち其八月川中島へ輝虎働く其供を仕り落合彥助罷出、しかも柿崎が備へに居て落合彥助これ迄參ずると、物見に出て日々·夜々によばゝる此さまを聞て彼荒川新之丞·村井久之丞夜迯に仕る、何方へ參りたるとも終に行地しれず、定めて此兩人名字をかへて有らん、扨其年の九月十日に川中島合戰なり、
新字:弾正は七月川中島へ罷帰候、則ち其八月川中島へ輝虎働く其供を仕り落合彦助罷出、しかも柿崎が備へに居て落合彦助これ迄参ずると、物見に出て日々·夜々によばゝる此さまを聞て彼荒川新之丞·村井久之丞夜迯に仕る、何方へ参りたるとも終に行地しれず、定めて此両人名字をかへて有らん、扨其年の九月十日に川中島合戦なり、
書き下し
弾正は七月川中島へ罷帰候、則ち其八月川中島へ輝虎働く其供を仕り落合彥助罷出、しかも柿崎が備へに居て落合彥助これ迄参ずると、物見に出て日々·夜々によばゝる此さまを聞て彼荒川新之丞·村井久之丞夜迯に仕る、何方へ参りたるとも終に行地しれず、定めて此両人名字をかへて有らん、扨其年の九月十日に川中島合戦なり、
現代語訳
弾正は七月に川中島へ罷り帰り候。すなわちその八月、川中島へ輝虎が働く。その供を仕り落合彦助が罷り出で、しかも柿崎の備えに居て、落合彦助これまで参ずると物見に出て日々夜々に呼ばわる。この様を聞いて、かの荒川新之丞・村井久之丞は夜逃げに仕る。いずかたへ参りたるとも、ついに行く地は知れず。定めてこの両人は名字を替えてあらん。さてその年の九月十日に川中島合戦なり。
解説
討ったと言った相手が、その翌月に敵陣で名乗りを上げた。それを聞いた二人は夜逃げして行方知れずになる。知行を渡していれば取り返しがつかなかった。一言の噂で止めた判断が、二か月後に裏付けられている。一言の噂で止めた判断が、二か月後に裏付けられている。討ったと言った相手が敵陣で名乗りを上げ、二人は夜逃げして行方知れずになった。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
露見夜逃げ落合川中島知行裏付け
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