甲陽軍鑑 / 品第四十七
目安あがり御前公事になる、信玄公兩方の目安御覽あり、各々六人の申分をきゝ給ひ則ち仰せ出さるゝ、第一長沼兄弟はほまれあり、子細は其塲にて仕合の手前はいかんもあれ、幼少にてはなれたる親の敵の他國にあるを、母など申す口にてうたんと思ひ入り、二十一や二十に成るを待ちかね、其年信濃へ參り候刻、出て二度歸るまじと武田の宮に願書をこめ、存分をとげたれば、たとへば樣子あしくといふとも心ばせは大剛なり、
新字:目安あがり御前公事になる、信玄公両方の目安御覧あり、各々六人の申分をきゝ給ひ則ち仰せ出さるゝ、第一長沼兄弟はほまれあり、子細は其塲にて仕合の手前はいかんもあれ、幼少にてはなれたる親の敵の他国にあるを、母など申す口にてうたんと思ひ入り、二十一や二十に成るを待ちかね、其年信濃へ参り候刻、出て二度帰るまじと武田の宮に願書をこめ、存分をとげたれば、たとへば様子あしくといふとも心ばせは大剛なり、
書き下し
目安あがり御前公事になる、信玄公両方の目安御覧あり、各々六人の申分をきゝ給ひ則ち仰せ出さるゝ、第一長沼兄弟はほまれあり、子細は其塲にて仕合の手前はいかんもあれ、幼少にてはなれたる親の敵の他国にあるを、母など申す口にてうたんと思ひ入り、二十一や二十に成るを待ちかね、其年信濃へ参り候刻、出て二度帰るまじと武田の宮に願書をこめ、存分をとげたれば、たとへば様子あしくといふとも心ばせは大剛なり、
現代語訳
目安が上がり、御前公事になる。信玄公は両方の目安を御覧あり、方々六人の申し分を聞き給い、すなわち仰せ出だされる。第一に長沼兄弟には誉れがある。子細は、その場にての仕合わせの手前はいかんもあれ、幼少にて離れたる親の敵が他国にあるのを、母など申す口にて討たんと思い入り、二十一や二十になるのを待ちかね、その年に信濃へ参り候刻、出て二度は帰るまじと武田の宮に願書を込め、存分を遂げたれば、たとえば様子は悪しくと言うとも、心ばえは大剛である。
解説

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