甲陽軍鑑 / 品第四十
山本勘介入道道鬼の雜談にて如此馬塲美濃守物語なり一南部下野殿改易、信玄公廿八歲の時、山本助介と申大剛の、兵武道の手抦ばかりにあらず兵法上手にて、或る時信州諏訪において南部殿内の者石井藤三郞と云ふ男を南部殿成敗し、はづし切てまはるに、折節勘介其近所に居あたり候座數へ、右の藤三郎きつておしこむ、勘介刀をとりあわせず、そこにしんざつほうのあるを取て向ひうけて組ころばし、繩をかけて南部殿へわたす、少つゝ手三ケ所おい候、手と申程の儀にてもなし、子細は三十日の內に平愈候、
新字:山本勘介入道道鬼の雑談にて如此馬塲美濃守物語なり一南部下野殿改易、信玄公廿八歳の時、山本助介と申大剛の、兵武道の手抦ばかりにあらず兵法上手にて、或る時信州諏訪において南部殿内の者石井藤三郎と云ふ男を南部殿成敗し、はづし切てまはるに、折節勘介其近所に居あたり候座数へ、右の藤三郎きつておしこむ、勘介刀をとりあわせず、そこにしんざつほうのあるを取て向ひうけて組ころばし、縄をかけて南部殿へわたす、少つゝ手三ケ所おい候、手と申程の儀にてもなし、子細は三十日の内に平愈候、
書き下し
山本勘介入道道鬼の雑談にて如此馬塲美濃守物語なり一南部下野殿改易、信玄公廿八歳の時、山本助介と申大剛の、兵武道の手抦ばかりにあらず兵法上手にて、或る時信州諏訪において南部殿内の者石井藤三郎と云ふ男を南部殿成敗し、はづし切てまはるに、折節勘介其近所に居あたり候座数へ、右の藤三郎きつておしこむ、勘介刀をとりあわせず、そこにしんざつほうのあるを取て向ひうけて組ころばし、縄をかけて南部殿へわたす、少つゝ手三ケ所おい候、手と申程の儀にてもなし、子細は三十日の内に平愈候、
現代語訳
南部下野殿の改易。信玄公が二十八歳の時、山本助介という大剛の兵は、武道の手柄ばかりでなく兵法も上手で、ある時、信州諏訪において南部殿の内の者、石井藤三郎という男を南部殿が成敗しようとして、外して斬って回るところ、折しも勘介がその近所に居合わせた座敷へ、右の藤三郎が斬って押し込んだ。勘介は刀を取り合わせず、そこに寝座の道具があるのを取って向かい受け、組み倒して縄をかけ、南部殿へ渡した。少しずつ手を三か所負った。手と申すほどの儀でもない。子細は三十日のうちに平癒した。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『甲陽軍鑑』品第四十左有ては山本勘介も定めてめいわくに思はん、爰を勘介に免じて命をたすくる間、遠き国へまいれとありて改易いたされ、奥州会津へ行き南部下野死をれ候なり、七十騎足軽·旗本·其外方々へわかち、春日左衛門·笠井備後は右南部両おとなの子なり、已上一或る年武田の一家勝沼五郎殿、
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『甲陽軍鑑』品第四十惣別勘介は武篇の時も、はなしうちの時も数度少づゝ手負、八十六ヶ所の疵数なり、それを右の南部殿あしうさたなさるゝもいわれず候、此南部下野殿も甘利備前·板垣駿河·小山田備中·飯富兵部少輔四人の衆につゞき、少は武篇の覚もありといへ共、うわきにて常に無穿鑿なる事ばかりいひ、遠慮もなく明暮過言を申され、うそをつき給ふ、無分別人にて山本勘介をにくみ、国郡をもたぬ者の城取·陣取、又外科医者もふかき事あるましきと思ふに、まして兵法つかひにて手を負たるなどゝいふて、山本勘介をこと〳〵く悪口せらるゝ、
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『甲陽軍鑑』品第四十目付衆·横目衆頓而御耳に立る、信玄公きこしめし、長坂長閑·石黒豊前·ごみ新右衛門を御使になされ、則ち書立をもつて仰下さるゝ、其御書の趣き南部下野·山本勘介と云ふ大剛の兵を悪口の事ぶせんさくなる儀なり一山本勘介小身成者の城取·陣取まことしからぬとある儀、
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『甲陽軍鑑』品第四十物をしらぬ申されやうにてあり、唐国周の文王崇敬の太公望儀大身にては有まじき事一兵法つかひの手を負たると申は一入武士道無案内なり、兵法の儀手をおはぬと云ふ事にてはあるまじ、手をおふて相手を仕ほすが本の兵法也、殊更其方被官の石井藤三郎しらはの所へ棒にてむかひ、くみたをしたらんには、勘介死ても、かばねのうへまでほまれあるを、そねむはぶせんさくなる事一其方南部手抦は内の者笠井と春日と両人して仕るを我手抦のやうに申さること聞及びたる事是三ケ条をもつて成敗仕るべく候へ共、
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『甲陽軍鑑』品第四十七さるに付て典厩信繁·原美濃守·山本勘介此事始め終り言上也、信玄公きこしめし、寺川·赤口関何れもとしこばい、宿老にて男子道いまだ若きなりと見ゆる侍が、侍にいであふて伐つく事有べきに、さはなくして暫くおし付て罷有は、人にとりさへられたきとある事に相似たり、又押付らるゝ侍も武士が胸へ手をかけられかこると、一度にはや脇ざしをぬきつく所にてはなきか、
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『甲陽軍鑑』品第四十七折節高坂弾正川中島より甲府へ参候内藤修理と談合いたし、両人にて信玄公へ申上る、金丸平三郎事一段利発に御奉公申たる者にて御不便を加へらるゝ事御尤にて候、しかれば彼かたきの落合彥介を成敗仕頸とり、村井久之丞·荒川新之丞と申者罷帰候のよしにて一人に五百貫づゝ両人に千貫の御知行可被遣の旨何よりもつての御事なり、さりながら先重ねてになさるべく候其子細は山本勘介などにさへ始めは百貫にてめしよせられ候、但し其比は信濃国も漸やう十分一御手にいると申せ共、山本勘介は又尋常の者にあらず、御家へ参りても横田備中·原美濃·小幡山城·多田三八·山本勘介五人に勝れたる足軽大将にて御座候此五人は凡そ日本国にもあまり多くは有まじきと、近国にも人の存知たる者共也、