甲陽軍鑑 / 品第四十七
信玄公宣ふは、脇指をなげ付られてから、むかさ與一郞は其ころびたる中間をきりたるかと尋ね給ふ、町人共申は、切なされず候、其死人に刀目はいくつありたると尋給ふ、はじめむかさ殿伐給ふ二刀にてころび候、さて志村殿跡より來りて頸を伐給ひ候と申す、信玄公きこしめし、其くびは一刀にてはなれたるかと尋給ふ、町人ども申すは、一刀にてはなれ、したの石へきりつけなされ候間、御撿使をたてられ御覽なされ候共、今に其石にきず御座候と申すに付、則金ノ介が刀を銘々御前衆にみせなされ候、其塲へ廿人頭兩人さし越しみせ給ひて、
新字:信玄公宣ふは、脇指をなげ付られてから、むかさ与一郎は其ころびたる中間をきりたるかと尋ね給ふ、町人共申は、切なされず候、其死人に刀目はいくつありたると尋給ふ、はじめむかさ殿伐給ふ二刀にてころび候、さて志村殿跡より来りて頸を伐給ひ候と申す、信玄公きこしめし、其くびは一刀にてはなれたるかと尋給ふ、町人ども申すは、一刀にてはなれ、したの石へきりつけなされ候間、御撿使をたてられ御覧なされ候共、今に其石にきず御座候と申すに付、則金ノ介が刀を銘々御前衆にみせなされ候、其塲へ廿人頭両人さし越しみせ給ひて、
書き下し
信玄公宣ふは、脇指をなげ付られてから、むかさ与一郎は其ころびたる中間をきりたるかと尋ね給ふ、町人共申は、切なされず候、其死人に刀目はいくつありたると尋給ふ、はじめむかさ殿伐給ふ二刀にてころび候、さて志村殿跡より来りて頸を伐給ひ候と申す、信玄公きこしめし、其くびは一刀にてはなれたるかと尋給ふ、町人ども申すは、一刀にてはなれ、したの石へきりつけなされ候間、御撿使をたてられ御覧なされ候共、今に其石にきず御座候と申すに付、則金ノ介が刀を銘々御前衆にみせなされ候、其塲へ廿人頭両人さし越しみせ給ひて、
現代語訳
信玄公が宣うは、脇指を投げ付けられてから、武笠与一郎はその転びたる中間を斬りたるかと尋ね給う。町人どもが申すは、斬りなされず候。その死人に刀目はいくつありたると尋ね給う。初め武笠殿が斬り給う二刀にて転び候。さて志村殿が跡より来りて首を斬り給い候と申す。信玄公が聞こし召し、その首は一刀にて離れたるかと尋ね給う。町人どもが申すは、一刀にて離れ、下の石へ斬り付けなされ候あいだ、御検使を立てられ御覧なされ候とも、今にその石に疵が御座候と申すに付き、すなわち金ノ介の刀を銘々御前衆に見せなされ候。その場へ二十人頭の両人を差し越し見せ給いて。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『甲陽軍鑑』品第四十七さて今の囚人しゆりけんうちたる時は、むかさ与一郎が仕形如何と尋ね給へば、町人共申すは、むかさ殿二三間しさり給ふと申す、信玄公仰られ候は、うしろへしさりたるか、めしうどの方へ、むかさかうしろをむけてのきたるかと尋給ふ、うしろをむけてにぐるとて右の股へわきさしなげ付られてより、むかさ殿ころびなされ候、其間に志村殿来りて頸をきりはなし候と申しあぐれば、信玄公きこしめじ、此むかさ与一郎なにのやくにも立つまじき者也、批判に及ばぬと宣ふ、
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『甲陽軍鑑』品第四十七五人十人の町人にてもなく五十人にあまりたる町人口をそろへて申す、志村殿は十四五間跡よりおふてまします、むかさ殿は立むかふて何事ぞと不審をたて候、志村金ノ助殿あとより、それをとある言葉をきゝ其まゝ刀をぬき、五間計りそとへにげのびたるを押つめ給ふに、今の囚人ははやとをくから一たんに逃来る故か、くたびれ心にてむかさ殿に追付られ、二太刀にてうつむきにふすを、むかさ殿たちまわりて頸をきらんとなさるゝを、かの中間あふのきに成ながら手に持たる脇指を、むかさ殿へなげつけ申候、其間に志村金ノ介殿かけつけて頸切はなし申され候と町人共申せば、
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『甲陽軍鑑』品第四十七又町人共に尋ね給ふは、右囚人のわきざしなげたる時は、間地かゝるべきか、遠かりつるかと尋ね給へば、町人共近かしと申す、ちかくにふしてなげたらば、刀届くほどにては股へうらかく程にたつまじ、殊に今ほど冬なる間手ぢかくにて、ねながらなげたるは、きる物をうちとほすほど脇指に力入まじ、とをければ又手をのばして、いかにもしなへてうつにより、たとへば火ばしにてもふかく立物なり、ちかげれば、つよみが入りかぬるをもつて夫程は通るまじ、但しそれも、はゞやき刀·脇指にては蠅の舞ひかこりて、きえきるゝもある程にあらそはれぬ事也、
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『甲陽軍鑑』品第四十七信玄公金ノ介に尋ねなさるゝは、家の内にて一太刀も合たるかと仰らる、志村金ノ介兎角の返事も申上ず、懐ろより熊野の牛王に起請の書たるを取出し廿人頭へ渡す、其起請の趣きも金ノ介手前別の事なし、さていまのはなし討の所はいづくぞと御尋なされ候へば、工少路にて候と申故、工少路の町人悉く召寄られあるやうに申上ずは、がうもんして尋ね有べきとある上意なれば、
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『甲陽軍鑑』品第四十七扨又志村金ノ助·むかさ与一郎公事終て翌日に諸侍へ二十人衆をもつてあひふれらるゝ、其趣きは、今度むかさ与一郎を逆心の科ほど申しつくる事は、彼のむかさ男武士道不穿鑿の科なれば、以後又かやうのさたにては、よき侍をあしういひ、あしき侍をほめたて、ひいき〳〵のさほうにては信玄が家の侍、大小共に善悪同事にて、よき武士も悉く勇なうして、第一は軍法見だりなるべし、軍法あしければ晴信勝利を失ふ事疑ひ有るまじ、勝利を失ふ事疑ひなければ、件のむかさ与一郎は晴信ほこさきの恥有るみなもと也、扨てこそ至て謀叛の科と同前なり、故に如件機ものにあぐると、あひふれさせ給ふなり、
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『甲陽軍鑑』品第四十七さるに付て典厩信繁·原美濃守·山本勘介此事始め終り言上也、信玄公きこしめし、寺川·赤口関何れもとしこばい、宿老にて男子道いまだ若きなりと見ゆる侍が、侍にいであふて伐つく事有べきに、さはなくして暫くおし付て罷有は、人にとりさへられたきとある事に相似たり、又押付らるゝ侍も武士が胸へ手をかけられかこると、一度にはや脇ざしをぬきつく所にてはなきか、