甲陽軍鑑 / 品第四十七
右の源五郞侫人の事、其右には中々誰も不存候へ共、信玄公は推量なされてあればこそ、さま〳〵彼源五郞が心をひき見給ふ、又其比かつ沼入道のむすめに御手をかけられ、古籠屋小路と申所に屋敷をかまへ置まいらせらるゝ是へ源五郞を御使につかはされ、跡より二十人衆かしらを一人目付にこし給ふ、是をばゆめにもしらずかつのま殿のはした衆と源五郞みだりなるふりをいたすに付、御みかぎりをかうふり、次第に出頭とをく罷成、其身の科をさしをき信玄公へうらみに存奉り、後には太郞義信公と組み逆心の事御耳にたち、其證據顯はれて金丸平三郞がきられたる六年目に、終に長坂源五郞を誅罰なされ候、日本あるじ天照皇太神宮の御詫に、謀計は眼前の利潤たりといへども、かならず神明の罰をあたるとなり、
新字:右の源五郎侫人の事、其右には中々誰も不存候へ共、信玄公は推量なされてあればこそ、さま〳〵彼源五郎が心をひき見給ふ、又其比かつ沼入道のむすめに御手をかけられ、古籠屋小路と申所に屋敷をかまへ置まいらせらるゝ是へ源五郎を御使につかはされ、跡より二十人衆かしらを一人目付にこし給ふ、是をばゆめにもしらずかつのま殿のはした衆と源五郎みだりなるふりをいたすに付、御みかぎりをかうふり、次第に出頭とをく罷成、其身の科をさしをき信玄公へうらみに存奉り、後には太郎義信公と組み逆心の事御耳にたち、其證拠顕はれて金丸平三郎がきられたる六年目に、終に長坂源五郎を誅罰なされ候、日本あるじ天照皇太神宮の御詫に、謀計は眼前の利潤たりといへども、かならず神明の罰をあたるとなり、
書き下し
右の源五郎侫人の事、其右には中々誰も不存候へ共、信玄公は推量なされてあればこそ、さま〳〵彼源五郎が心をひき見給ふ、又其比かつ沼入道のむすめに御手をかけられ、古籠屋小路と申所に屋敷をかまへ置まいらせらるゝ是へ源五郎を御使につかはされ、跡より二十人衆かしらを一人目付にこし給ふ、是をばゆめにもしらずかつのま殿のはした衆と源五郎みだりなるふりをいたすに付、御みかぎりをかうふり、次第に出頭とをく罷成、其身の科をさしをき信玄公へうらみに存奉り、後には太郎義信公と組み逆心の事御耳にたち、其證拠顕はれて金丸平三郎がきられたる六年目に、終に長坂源五郎を誅罰なされ候、日本あるじ天照皇太神宮の御詫に、謀計は眼前の利潤たりといへども、かならず神明の罰をあたるとなり、
現代語訳
右の源五郎が佞人の事、その右にはなかなか誰も存ぜず候えども、信玄公は推量なされてあればこそ、さまざま、かの源五郎の心を引き見給う。またその頃、勝沼入道の娘に御手をかけられ、古籠屋小路と申す所に屋敷を構え置き参らせらるる。これへ源五郎を御使に遣わされ、跡より二十人衆頭を一人、目付に越し給う。これをば夢にも知らず、勝沼殿のはした衆と源五郎がみだりなる振りをいたすにつき、御見限りを被り、次第に出頭が遠く罷り成る。その身の科を差し置き、信玄公へ恨みに存じ奉り、後には太郎義信公と組みて逆心の事が御耳に立ち、その証拠が現れて、金丸平三郎が斬られたる六年目に、ついに長坂源五郎を誅罰なされ候。日本の主、天照皇大神宮の御託宣に、謀計は眼前の利潤たりと言えども、必ず神明の罰を当たるとなり。
解説
この章句が説くこと
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『甲陽軍鑑』品第四十七金丸平三郎夜詰に罷出候を長坂長閑が子源五郎目付になり、落合彥介に八幡の前にてきらするなり、平三郎はいつも御城にふせられ候に付、用所有て屋形様戌の時の御看経の間に小者一人にて忍び宿へまいられ、夜の四ツ時に、何心もなく急ぎ御舘へ罷出るを源五郎よく存じ候てをしへ、平三郎二十一の歳落合彥介にきられたる事、長坂源五郎が讒言の故なりとは彼彥介申こしたるにてほどしれ候なり、
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『甲陽軍鑑』品第四十訴人岩間大蔵左衛門と別して入魂有て人の取やりなされ、彼大蔵左衛門に年々合力なとしたまふに付て目付衆やがて申上る、信玄公聞召訴人とさだむる者にちかづき、殊にしたしき儀不審のたつ様子なりとて御せんさく候へば、案のごとく五郎殿関東武蔵の大石一党と内通にて逆心の企顕はれて、其年中に勝沼五郎殿を信玄公御成敗被成候也、
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『甲陽軍鑑』品第四十七一言申事ならず、さて右の荒川新之丞·村井久之丞両人長坂長閑·跡部大炊をもつて落合彥介をうちて可参と申上る、長閑·大炊かねてより二人の牢人衆を別してかいほう申に付、則ち隠密にて披露いたす、牢人衆の内に荒川·村井両人にて落合彥介をうちて可参とのぞみ申す、此者どもは一段すみやかなる衆にて、余所においても数度の手抦をいたしたるよし様々御とりなし申あぐる、信玄公常の事をば大かたならず被入御念といへども、金丸平三郎御意に入たる者なれば、
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『甲陽軍鑑』品第四十七名人なる御屋形にて其辺に聞召し指置給ひて、其後本奉行衆を召て公事の様子さたなされ、就中此彥介が公事は源五郎横奉行の時、やがて指次に有之所に、平三郎おごらぬもやうなるにより平三郎を一入褒美なさるゝに付て、源五郎が平三郎をねたみて、彥介をよび讒言するやう、
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『甲陽軍鑑』品第四十七然る所に両出頭人の内、長坂長閑むすこ長坂源五郎落合彥介を相近付て申様は、此度其方を是ほどにはなさるまじき事なれ共、金丸平三郎が殊の外御取成しをあしく申上たる故、かくの分なりと様々彥助に申きかする意趣は、彥介が公事の前に長坂源五郎横奉行の番に相当る時、御蔵の前より罷帰る、公事の様子段々ことごとく源五郎言上仕るに付て、本奉行衆可申上様無之とて御前を罷立、是は源五郎分別相違故なり、
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『甲陽軍鑑』品第四十七信玄公右曲淵·落合公事落着不同之事、大形臆意はよき大将衆同風にまいるなり、以上金丸平三郎為落合彥助一被伐事並長坂源五郎被誅事一御舎弟道遥軒の被官落合彥助事、三法印の御佗言にて命助かり罷出る、然れ共七十にあまる母籠に入てあり、是は右の三法院へ逍遥軒より頼給ひ候へ共、三法院達仰らるゝには、彥介が罷出て、せめては五六十日も間を置て申べく候と被仰候へば、長坂長閑·跡部大炊両出頭衆も尤其事然べく候と談合申さるゝうちに彥介まかり出で、十日ばかりありて、年寄たる故に彥介が母死す、