甲陽軍鑑 / 品第四十
一眞田安房守又高坂彈正に問ふ、大敵のおさへにならばせめて一國をあたへずしては都あやうからん、爰をもつて信長も又此外別に仕置有るまじ、但し何とぞ今の仕樣より樣子よきもやう御座あるや、願はくは高坂彈正殿工夫をきかんと眞田安房守いへば、高坂彈正申、我等式の存ずる事ありとても、それはふかこらぬ儀なり、
新字:一真田安房守又高坂弾正に問ふ、大敵のおさへにならばせめて一国をあたへずしては都あやうからん、爰をもつて信長も又此外別に仕置有るまじ、但し何とぞ今の仕様より様子よきもやう御座あるや、願はくは高坂弾正殿工夫をきかんと真田安房守いへば、高坂弾正申、我等式の存ずる事ありとても、それはふかこらぬ儀なり、
書き下し
一真田安房守又高坂弾正に問ふ、大敵のおさへにならばせめて一国をあたへずしては都あやうからん、爰をもつて信長も又此外別に仕置有るまじ、但し何とぞ今の仕様より様子よきもやう御座あるや、願はくは高坂弾正殿工夫をきかんと真田安房守いへば、高坂弾正申、我等式の存ずる事ありとても、それはふかこらぬ儀なり、
現代語訳
一、真田安房守がまた高坂弾正に問う。大敵の押さえにするならば、せめて一国を与えずしては都が危うかろう。ここをもって信長もまた、この外に別の仕置きはあるまじ。ただし、何とぞ今の仕様より様子のよい模様が御座あるや。願わくは高坂弾正殿の工夫を聞かんと真田安房守が言えば、高坂弾正が申す。我ら式の存ずる事があるとても、それは深からぬ儀である。
解説
危ういと言われても、大敵を押さえる者に一国も与えないわけにはいかない。それなら信長のやり方以外に手はないだろうと、問う側が先に反論を立てている。それでも何かよい形はないかと重ねて尋ね、答える側はまず自分の考えは深くないと断る。問う側が先に反論を立てているところが、この家の議論らしい。それでも何かよい形はないかと重ね、答える側はまず自分の考えは浅いと断る。
この章句が説くこと
大敵押さえ一国工夫真田高坂
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